アパルトヘイト(Apartheid[1])は、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。
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1948年に法制化され、以後強力に推進された。1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後、ANC(アフリカ民族会議)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、国際連合に「人類に対する犯罪」とまで言われたこの制度は完全撤廃された。
南アフリカ共和国はこの政策のために選手団が1960年のローマオリンピックを最後に1992年にバルセロナオリンピックで復帰するまで長期間にわたって近代オリンピックから追放されるなど強い批判を受けていた。
大もとは17世紀以来のものであるが、アパルトヘイトという言葉は、1913年の原住民土地法に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。
白人が掌握していた政府は、「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展するべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」と表向き主張した。
しかし、それはあくまで表向きの理由であり、本当の狙いは白人と黒人の居住区及び生活圏を法的にくっきりとわけることにより、白人の安全を確保し、また、黒人に白人の生活をみせないことにより、格差感情を和らげるのが目的であった。
このためアパルトヘイトは「空間的差別」とも呼ばれる。
差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は490万人にすぎない。日本人などは名誉白人などとよばれ、白人居住区に居住した。
白人居住区に入った黒人は厳しく罰せられた。
また、黒人居住区に入った白人も厳しく罰せられた。これは黒人居住区を訪れる白人はその多くが当時の政府に都合の悪い、人種差別反対主義者だったことによる。
また、ボーア戦争以来、イギリスの統治に対立してきたアフリカーンスに対する懐柔策という側面もあった。
黒人達は白人が経営する農園や工場で働き、給料は白人の10分の1以下だった。住む家も、空き地に粗末な小屋を立てて生活する人たちも多勢いた。
黒人達が住む黒人居住区の道路は舗装されていない道が多く、舗装されていても穴が多く、維持・管理が不十分であった。
アパルトヘイトでは法律で人種を次の4通りに分けた。
原住民土地法、バンツー自治促進法、バントゥースタン(ホームランド)政策など
その他、就職、賃金、教育、医療、宗教など、日常生活の隅々にわたって非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。しかし、これらの差別法を非白人に守らせるには膨大な警察、管理機構が必要であり政府予算の半分近くがアパルトヘイト維持のための関連支出になってしまった。これらは白人納税者にとっても負担であり黒人の熟練労働を禁じたことも経済成長のうえでマイナスになった。
アパルトヘイトに対しては、対象人種だけでなく、主にイギリス系の白人の多くから反発があった。イギリス系よりもアフリカーナが公職でははっきり優遇されていた。代表的な反アパルトヘイト運動として、ネルソン・マンデラが所属していたアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ・インド人会議(SAIC)など。のちにアフリカ民族会議は分裂し、パンアフリカニスト会議(PAC)ができる。 1955年には、ANCやSAICなどによりクリップタウンで自由憲章が採択されるが、政府はそこに集まった群衆を解散させ、翌1956年には中心的な活動家を反逆罪で告訴した。
1980年代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化、また、国際的な経済制裁を受けた。これらを受け、1989年9月に大統領に就任したデクラークはこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、1990年 2月、ANC やPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。91年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。91年から94年までの3年間、南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。1993年4月に極右の白人議員の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だったクリス・ハニを殺害したことは、とりわけ記憶されていいだろう。そしてようやく、1994年4月に全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定され、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全に撤廃されたのである。 1991年のデクラーク大統領によるアパルトヘイト法撤廃方針を受けて欧州共同体(EC、のち欧州連合・EU)、アメリカ、日本は次々と経済制裁を解除していった。しかし当時、ANCなど解放組織は「経済制裁の解除は時期尚早」を訴えた。経済制裁を主導した国連が総会において経済制裁撤廃決議をしたのは1993年10月になってからである。
当時の世界経済の背景には、当時冷戦下における西側諸国は、南アフリカ共和国がレアメタルの独占的産出国であり、南アフリカ共和国からこれら資源を輸入しなくては、敵国ソ連から輸入せざるを得ない状況であった。それ故にアパルトヘイト政策を非難する経済制裁を発することが出来ず、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策を継続できた。ところが冷戦終結により旧東側諸国からのレアメタルの資源供給が容易になり、南アフリカ共和国の国際社会での立場が弱まり、欧米などから経済制裁を受けたことがアパルトヘイト撤廃に繋がっていった。
アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織とインカタ自由党 (IFP。ズールー族系)との武力衝突がトランスヴァール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズール・ナタール州)で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期されるものの1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。
1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。
マンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。
ツツ主教を委員長とする真実和解委員会を発足させ、人権侵害を行ったと指摘された人物・団体は刑事訴追を行った。経済政策として、公共事業を通じて失業問題を解消させ、土地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上下水道などの衛生施設の完備をし、2000年までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足から達成するにいたらず、特に黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業は増大し、社会犯罪は激増した。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となっている。このような状況から黒人の新政権への不満が高まることになった。
その後、ターボ・ムベキが新大統領に就任した後も状況は変わらず、失業率は3割を超え、またエイズが蔓延している。
1985年、英米のロック・ソウル・ジャズ等のスター約50名による「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」(Artists United Against Apartheid)の「サン・シティ」というシングルが発売された。折からのチャリティー・ブームに乗った企画であったが、リベラルな内容ゆえにアメリカの保守的な地方でのオンエアは控えめであった。ビルボードでは最高38位を記録している。
参加者はスティーヴ・ヴァン・ザント(提唱者、Eストリートバンドメンバー)、マイルス・デイヴィス、ホール&オーツ、パット・ベネター、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス、ピーター・ギャレット、ボノ、アフリカ・バンバータ、ボブ・ディラン、RUN D.M.C.、ノナ・ヘンドリックス、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、グランドマスター・メリー・メル、ルー・リード、リンゴ・スター、ザック・スターキー等。
サン・シティとは黒人居住区域にあった白人専用多目的施設の名称。高額な出演ギャラにてコンサートを行なうアーティストもおり、この企画に参加したアーティスト達は「I Ain't Gonna Play SUN CITY(サンシティなんかで演奏するもんか!)」と声高に唄った。黒人アーティストのレイ・チャールズやオージェイズも出演したことがある。
南ア人では、有名なジャズピアニスト、アブドゥラ・イブラハム(ダラー・ブランド)がいる。2005年10月、 "Abudullah Ibrahim: A Struggle for Love" という、ドイツ製作のドキュメンタリーフィルムが、バンクーバー映画祭にて上映された。
ピーター・ガブリエルはスティーヴ・ビコの件をテーマにした曲「Biko」を1982年に録音し、彼の代表曲の1つとなった。彼はライヴで反アパルトヘイトを聴衆に訴え、その曲をアンコールの最後の曲として歌うのが常だった。
日本では、THE BLUE HEARTSが1989年に「青空」をリリースした。爆風スランプも現地でliveを行った。
1985年、イエスの来日公演が企画されていたが、ギタリストのトレヴァー・ラビンが南アフリカ国籍である為に、日本の外務省が入国拒否をし、来日公演の企画が頓挫した。(1988年になって来日が実現)
この政策で、南アフリカにとって大きな貿易相手でもある日本人は「名誉白人(Honorary Whites)」として制度上の差別待遇を免ぜられた(→名誉人種)。正式な国交があった中華民国人は、名誉白人ではなく正式に白人として扱われた。又、アメリカ出身の黒人(アフリカ系アメリカ人)も、しばしば白人と同等の地位を認められていた。有色人種でも経済力のある者に対しては白人扱いするために、よってアパルトヘイトは貧困層の有色人種への差別とも捉えられる。
19世紀ゴールドラッシュでやってきた中国人の子孫は有色人種として扱われた。中華料理店は白人専用とされたが、中華料理店の従業員および主な顧客層である中国人の子孫、中華民国人も排除されかねないため、中国人の子孫も中華料理店に限っては名誉白人として扱われた。
1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明(ガルバ声明)、さらには国連総会では日本に対する非難決議が採決された。
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