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エドマンド・バーク

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エドマンド・バークEdmund Burke1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、ダブリン生まれのアイルランド人。英本国の下院議員(1765年 - 94年)。ホイッグ党の幹部。美学でデビューした哲学者。また、文章家・演説家でもあり、バークの著作は今でも英文学の対象であり、英国の国会議員にはバークで演説を訓練するものが多い。

保守主義の父」として知られる。主著は1790年の『フランス革命の省察』(原題:Reflections on the Revolution in France)であり、この本は保守主義のバイブルとされる。フランス革命を全否定して、ジャコバン派の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。1797年、ベコンズフィールドの私邸で病没。68歳。墓はなく、教会の礼拝堂の床下深くに妻、息子とともに埋葬されている[1]

目次

哲学・思想

バーク哲学の骨格

バーク保守主義は、記憶にもない、記録にもない、祖先から相続した古来からの“制度”を絶対的に擁護し、それを子孫に相続していく哲学である。この故に、自然的に発展し成長してきた不可視的な“法(コモン・ロー)”や道徳、あるいは階級や国家とともに、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度も、ある世代が自分たちの知力において改変することが決して許されない、“時効の国体(prescriptive Constitution)”と看做される。そして、個人の自由/名誉/財産は、この“時効の国体”の擁護において、また、世代を超えて生命を得ている慣習・習俗や道徳の宿る“中間組織(intermediate social-group)”、例えば家族、ムラ、教会コミュニティ等の擁護において、守られると考える。

このようなバーク哲学において、人間の知力などというものは、祖先の叡智が巨大な山のごとくに堆積している、古来からの“制度”には及ばない、矮小で欠陥だらけのものとの考えがある。それゆえ「理性主義」、すなわちデカルト的な人間の理性への過度な過信を根源的に危険視し、その排除・排撃を提唱する。それはまた、個々の人間を多くの間違いを冒す不完全な存在と看做す、謙抑な人間観が横たわっている。

文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、文明の政治経済社会に仮に、人間の知力や理性に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されると考えたのである。実際に、このバーク哲学の思惟と予見どおりに、フランス革命は、人間の理性を絶対視し、既存の教会制度を否定し「理性の神」を崇拝した結果、個人の生命をフル操業するギロチンに奪われ、財産を革命権力の恣意に奪われ、血塗られた無法地帯の阿鼻叫喚の巷をつくりだした。

  • バーク哲学の主要概念は、偏見(prejudice)、時効(prescription)、黙諾(presumption)、相続・世襲(inheritance)、法の支配(rule of Law)、慣習(convention,customs)、伝統(tradition)、私有財産(property)などである。
  • 逆にバークが断固として拒絶した概念は、平等(equality)、人権right of man)、国民主権、抽象(abstruction)、理性(裸の理性、naked reason)、進歩progress)、革新(innovation)、民主主義(democracy)、人間の意思(will of man)、人間の無謬性(perfectibility of man)などである。

各論

アダム・スミスの『国富論』で有名になった“神の見えざる手”という表現は、実はバークの方がはるか以前に駆使していた、バーク概念の一つである(『イギリス史略』)。バークは、人間の文明社会は、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”で形成されたものであっても、人間の知力で“設計”されたものではないと考え、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業において開花し発展・成長した偉大なものが文明の社会だと把握する。

自由は英国の長きにわたる歴史の中で醸成されたものであり、国王大権と議会特権とのあらゆる嵐と抗争に耐えて維持されてきたものである。自由は祖先から相続した財産であるがゆえに国家に対して不可侵権をもつのであり、けっして人権や自然権であるからではない。そして、自由を世襲の権利として正しく永続させ、聖なるものとして保持すべき筋道・方法として世襲王制以外はないと、経験が教えている。

偏見は諸国民や諸時代の共同の銀行・資本であり、そこには潜在的な智恵が漲っている。したがって、その偏見がより永続したものであり、広く普及したものである程好ましいものである。各人が私的に蓄えた僅少な理性よりは、共通の偏見に従ったほうがよい。言い換えれば、偏見の衣を投げ捨てて裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性が折り込んである偏見を継続させる方が遥かに賢明である。偏見は火急に際しても即座に適用できる。予め精神を確固たる智恵と美徳の道筋に従わせ、決定の瞬間に人を懐疑や謎で不決断で躊躇させない。偏見とは人の美徳をしてその習慣たらしめるもの、脈絡のない行為の連続には終わらせないものである。このように、偏見は迷信とは異なり、智恵と美徳をもたらしセンセーショナリズムを防ぐものである。

フランス革命とバーク

1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃がロンドンの新聞紙上に報じられた7月18日、バークは既に60歳の老齢であった。バークは当初からフランス革命に対し否定的であり、そのことは彼によるフランス革命への記録上最初の言及である1789年8月9日の手紙からわかる。

同年11月、バークは、革命支持者であるフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。これに対してバークがしたためた長文の手紙と、1790年1月に第2の返信をしたためている時読んだ、ユニテリアン牧師リチャード・プライスの『祖国愛について』への反論が合わさり、同年11月の『フランス革命の省察』の出版に至る。『フランス革命の省察』の内容はフランス革命への批判、そして革命が今後どのような経過を辿るかの予見である。

革命はバークの予測通りロベスピエールの恐怖政治とナポレオンの軍事独裁へと突き進んだ。また、革命熱は3世代に亘り冷却せずサイクル的にフランスを襲うとのバークの予測も、その通りで、フランス革命熱からフランス人が覚醒したのは第三共和国憲法(1875年)の制定前後からであった。

バークは、1790年5月6日に英国議会の庶民院でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者もわずかだが存在する。

『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で、「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。

また同年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」が出され、フランス国内に反革命勢力が存在しているうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、首相のピットがフランスの革命エネルギーによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊というフランス革命によるイデオロギー的侵略・精神的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。

バークはピットが指導する対仏戦争に反革命の十字軍としての使命感を求め、1796年の「国王弑逆者との講和(に反対する)」では“同じ文化・同じ宗教・同じ法”を共有していない者との講和は不可能であるとして、国家利益の見地から英国が模索するフランス革命政府との妥協に反対した。完全な粉砕による無条件降伏まで戦争を続行することを主張したのである。こうした姿勢は、1797年7月にこの世を去るまで貫かれた。

バーク哲学の継承

「バーク哲学」を体系的に継承してその復活を英国で試みたのは、十九世紀末の歴史家ジョン・エメリック・アクトン卿であった。ルソーフランス革命を「功利主義」という偽装的な言葉で「現代化」したベンサムの英国型全体主義理論がJ・S・ミルによって社会主義へと発展している事態を憂慮して、バークを用いて反撃に出たのである。その後、バーク哲学を全面に押し出した学者は英国には誕生していないが、「バーク外交」を継承した政治家を二人輩出した。その二人とは、ウィンストン・チャーチルマーガレット・サッチャーである。

米国においては、コーク/ブラックストーンによる「法の支配」の法哲学が、アレクサンダー・ハミルトンらによって継承されていた。バーク哲学が本格的に流入したのは、1950年の朝鮮戦争の勃発に伴なって、国あげて反共に思想武装するためであり、ラッセル・カークらに先導されて大ブームとなった。そして、1981年に大統領になったロナルド・レーガンは、反共反ソであっただけでなく、米国史上初めて“バーク保守主義”を信奉する大統領であった。

フランスにおいては、初のバーク主義者はトックヴィルであり、その主著『アメリカのデモクラシー』(1835年 - 40年)の主概念「多数者の専制」は、バークの概念を借用しているし、「平等」が国家社会をアナーキーに解体していき反転して全体主義体制に至るとのトックヴィルのモチーフは『フランス革命の省察』そのものである。だが、フランスでは反バーク的なルソーの影響はまだまだ絶大で、ニーチェハイデガーフロイトなどとこのルソーを混淆して1968年頃にはフーコーらのポストモダン思想を構築している。

バーク哲学が、事実上まったく流入しなかったのはドイツロシアである。ドイツではルソー直系のヘーゲルを通じてマルクス主義が隆盛し、このマルクス主義からフランクフルト学派の社会学などが発展した。なお、イマヌエル・カントは『判断力批判』においてバークの美学・崇高論を参照している。

日本における研究状況

日本に初めてバークを紹介したのは金子堅太郎である。1881年、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として元老院から刊行した。自由党ルソー主義への批判が目的であった。

ルソーを信奉する植木枝盛は、これに対して1882年、論文「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」により反論。

井上毅は、この金子のバーク抄訳を読みバークに感動し、金子を伊藤博文の秘書官に任用して、明治憲法の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。

しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるためドイツ法を範にされることになった。その後東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおきイギリス憲法学を排除したことによって、コークウィリアム・ブラックストンとともにバークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本ではドイツ観念論マルクス主義がもてはやされた事からバークの存在は省みられなかった。バークに関する研究が始まるのは第二次大戦後のことで、まずは、小松春雄による研究、これに岸本広司が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。

フランス革命を熱烈に支持しトマス・ペインの信奉者である坂本義和は、反バークの立場から、自分のバーク論をまとめた。

日本語文献

錦正社で復刻、1988年。この論考は、『先哲を仰ぐ』 錦正社、1998年にも収む。
  • 上田又次『エドモンド・バーク研究』 至文堂、1937年。注:上田は平泉門下の一員。
  • 坂本義和「国際政治における反革命思想」
     『坂本義和集1 国際政治と保守思想』 岩波書店、2004年、注:坂本はバーク批判の立場。
  • 小松春雄『イギリス保守主義史研究―エドマンド・バークの思想と行動』御茶の水書房、1961年
  • 小松春雄『イギリス政党史研究―エドマンド・バークの政党論を中心に』御茶の水書房、1983年
  • 中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』 中公叢書:中央公論新社 2002年
  • 岸本広司『バーク政治思想の形成』御茶の水書房、1989年
  • 岸本広司『バーク政治思想の展開』御茶の水書房、2000年
  • 中野好之『バークの思想と現代日本人の歴史観』、御茶ノ水書房、2002年

バークの著作

著作集

  • The writings and speeches of Edmund Burke, Vol.I~IX, Oxford.

邦訳のある著作

  • フランス革命の省察』 著作集3、みすず書房新装版、岩波文庫上・下、中公クラシックスⅠ・Ⅱ
  • 『崇高と美の観念の起原』著作集1、新版<みすずライブラリー> 各みすず書房
  • 『現代の不満と原因』 著作集1、みすず書房 1973年
  • 『アメリカ論 ブリストル演説』著作集2、みすず書房 1973年
  • 『バーク政治経済論集』(法政大学出版局2000年 ISBN 978-4-588-62508-4) - 「フランス国民議会の一議員への手紙」「新ウィッグから旧ウィッグへの上訴」などを収録。中野好之

未邦訳の主要著作

  • 『イギリス史略』(1757~60年)
  • 『アイルランド刑罰法』(1761年)

バークの入門的な解説書

  • ロバート・ニスベット『保守主義』、昭和堂。本書は一般的な保守主義の解説ではなく、バーク保守主義のみ論じている。
  • Russell Kirk、“CHAP.II BURKE AND THE POLITICS OF PRESCRIPTION”、THE CONSERVATIVE MIND、REGNERY. バーク哲学の簡便な解説書としては、上記のニスベットと並び双璧と称されている。
  • Russell Kirk、EDMUND BURKE、Sherwood&Sugden

関連項目

外部リンク

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