シーツ善政 とは、1949年から1950年にかけて琉球列島米国軍政府の軍政長官であったジョセフ・R・シーツ陸軍少将による施政をいう。シーツの在任期間は約一年間に過ぎなかったが、彼の在任中に沖縄の戦後復興は軌道に乗り始め、住民の信望を集めた。
シーツ着任時点の沖縄は、島民自らが「忘れられた島」と自嘲するほど経済復興の見通しが立たず、インフレが亢進し、駐留アメリカ軍の士気は低下し犯罪が多発、那覇市内の大半を含む島内の多くの場所が軍用地として接収され、建築・居住が許可されないという混迷状態が続き、占領行政は行き詰まりを見せていた。
シーツは「自らが(第二十四軍団砲兵指揮官として沖縄戦に参加して)破壊した沖縄を自らの手で再建復興するのだ」と宣言し、数々の政策を実行に移した。その内容は、
など、多岐にわたっている。
特に政治体制の面では、琉球・奄美・宮古・群島の各民政府を設立し、その知事・議員を公選とした他、琉球列島米国軍政府を解消し、米国民政府(通称USCAR・ユースカー)を設立するなど、自由化を推進した。
シーツ自身も地元の小中学生と積極的に交流の機会を持ち、駐留米兵には「アメリカの外交官のつもりで沖縄島民に接せよ」と訓示するなど、占領地沖縄の統治の安定化に向けて努力した。
「シーツ善政」は、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発直前の緊迫した国際情勢を反映し、アメリカにとって沖縄の軍事基地としての戦略的重要性が高まり、本国の沖縄統治方針が単なる軍事占領から恒久的な統治へと変わったことから実現したもので、沖縄住民の幸福が主目的であったとは必ずしも言えないし、その後の政策転換によって民政府は再度、主席任命制の琉球政府に再改組されるなど、善政の成果が帳消しになった部分もあるが、シーツ自身の人柄や琉球復興への熱意もあって、善政は当時の沖縄住民のほとんどに好意的に受け入れられた。1950年末に病を得たシーツが退役し、帰国する際には、留任運動が起こったほどであった。