| F1での経歴 | |
|---|---|
| 国籍 | イギリス スコットランド |
| 所属チーム | ロータス |
| 活動時期 | 1986 |
| 出走回数 | 16 |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 3 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 0 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| 初戦 | 1986年ブラジルGP |
| 初勝利 | - |
| 最終勝利 | - |
| 最終戦 | 1986年オーストラリアGP |
| タイトル | 0 |
ジョニー・ダンフリーズ(Johnny Dumfries、1958年4月26日 - )はイギリス出身の元レーシングドライバー。1984年イギリスF3チャンピオン、1988年ル・マン24時間レース優勝者。
本名:ジョン・コラム・クライトン=スチュワート(John Colum Crichton-Stuart,7th Marquess of Bute)。
目次 |
スコットランドの名門貴族の子孫。高等教育ではなくレースに興味を持ち、1980年に100ccカートでキャリアをスタートさせ、1981年からはフォーミュラ・フォードに参戦。1982年まで2年間参戦した。
1983年にはイギリスF3にステップアップを果たし、最高位3位。2年目の1984年には10勝を挙げ、圧倒的な差でチャンピオンを獲得した。またこの年はヨーロッパF3にも参戦、4勝でランキング2位となっている。
この頃よりF1チームからも注目され始め、1985年にはフェラーリからテストドライバーに抜擢される。このため、ダンフリーズはマシン開発に1年を費やしたが、傍らで国際F3000にスポット参戦、入賞1回を記録している。
1986年、ロータスはアイルトン・セナとデレック・ワーウィックのラインナップでF1に参戦する予定だったが、セナが「トップドライバーが2人いることは、チーム力の分散になる」とワーウィックを拒否。この為、急遽ダンフリーズに白羽の矢が立ち、F1参戦が決定した。セナは1983年のイギリスF3チャンピオンであり、1983年・1984年のチャンプ同士が組む結果となった。
しかし、ダンフリーズは全16戦中、予選ではベストグリッド8位、決勝でも入賞2回(最高位5位)に終わり、ランキングは13位。予選で8回のポールポジション、決勝で2勝を記録し、チャンピオン争いの末ランキング4位となったセナと比較すると、大きく見劣りする結果となった。特に予選の平均タイムでは、セナに3秒以上の遅れを取っていた。
元々、チーム力の分散を危惧して急遽抜擢されたということもあり、支給されるパーツやチーム内での立場において、ダンフリーズはぞんざいな扱いを受けていた。しかしその点を考慮しても、この成績はチームを納得させるに至らなかった。またロータスは、翌1987年よりホンダからエンジン供給を受けることになり、それに伴いセナのチームメイトに中嶋悟を迎え入れることを決めた。これにより、ダンフリーズは1年でF1から去る結果となった。
1987年は世界スポーツプロトタイプカー選手権(以下:WSPC)にジャガーで参戦、スパ1000kmで総合優勝を記録した。ル・マン24時間レースではザウバーから参戦、最終的にはリタイヤに終わったものの、ファステストラップを記録している。
1988年も、WSPCに前年から引き続き参戦するが、好成績は残せなかった。しかしル・マン24時間レースにおいては、ジャガーからヤン・ラマース、アンディ・ウォレスとのトリオで参戦、総合優勝を果たした。またデイトナ24時間レースでも、エディ・チーバー、ジョン・ワトソンと共に参戦し2位の成績を収めている。この年より3年間は、ベネトンF1チームのテストドライバーとしても活動。アクティブサスペンションの開発を任されてのものだった。
1989年には、トムスよりトヨタのマシンでWSPC、ル・マン24時間レースに参戦。翌1990年も同様にトヨタから参戦、ル・マン24時間レースの際には、チームメイトの1人に鈴木亜久里がいた。
1991年はトムスを離れ、クラージュからル・マン24時間レースに参戦。この年もリタイヤに終わり、優勝した1988年以外は全てリタイヤという結果となった。1992年に引退。その後は、日本円にして総資産1800億とされる一族の財産を引き継ぎ、所有する城の中で暮らしている。
引退後、世界の富豪を紹介する番組内で、ダンフリーズが紹介されたことがある。この際、城の内部やプール、読書などの様子が流れた。僅かではあるが、レーサーだったことにも触れられ「レースをしていた頃は、毎日が刺激だったが、今は退屈でうんざりする」との発言もあった。
この内容は、日本でも『世界まる見え!テレビ特捜部』を通じて紹介されている。