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タンザニア

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タンザニア連合共和国
Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ語)
United Republic of Tanzania (英語)
国旗 (国章)
国の標語: Uhuru na Umoja
スワヒリ語: "自由と統一")
国歌: 神よ、アフリカに祝福を
公用語 スワヒリ語(国語)・英語
首都 ドドマダルエスサラーム1
最大の都市 ダルエスサラーム
政府
大統領 ジャカヤ・キクウェテ
首相 ミゼンゴ・ピンダ
面積
総計 945,087km²30位
水面積率 6.2%
人口
総計(2008年 43,739,000人(30位
人口密度 39人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 24兆8,174億[1]タンザニア・シリング
GDPMER
合計(2008年 207億[1]ドル(95位
GDPPPP
合計(2008年 537億[1]ドル(100位
1人当り 1,351[1]ドル
独立
 - タンガニーカ
 - ザンジバル
 - 合併
イギリスより
1961年12月9日
1963年12月19日
1964年4月26日
通貨 タンザニア・シリングTZS
時間帯 UTC (+3)(DST: なし)
ISO 3166-1 TZ / TZA
ccTLD .tz
国際電話番号 255 3
註1: データは本土のみ
註2: 立法府の議事堂はドドマ、その他の政府官庁はダルエスサラーム
註3: ケニアとウガンダから掛ける場合は 007

タンザニア連合共和国(タンザニアれんごうきょうわこく)、通称タンザニアは、中央アフリカ東部の共和制国家ケニアウガンダルワンダブルンジザンビアマラウイモザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。

アフリカでも有数の大自然に恵まれ、文化的にもスワヒリ語公用語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。

目次

国名

正式名称は、スワヒリ語でJamhuri ya Muungano wa Tanzania(ジャムフリ・ヤ・ムーンガノ・ワ・タンザニア)。英語でUnited Republic of Tanzania(ユーナイテド・リパブリック・オヴ・タンザニーア)。通称、Tanzania

日本語の表記は、タンザニア連合共和国。通称、タンザニア

国名はタンザニアを構成するために連合したタンガニーカザンジバルの名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前を複合して1964年に命名された。

歴史

詳細はタンザニアの歴史を参照

250~200万年前にホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。


7世紀にアラビア半島イスラーム教が成立した後、10世紀頃までにアラブ人ペルシア人がキルワ島やザンジバル島に渡来し、スワヒリ文明が栄えた。

1498年にポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えて東アフリカに渡来し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼした後、東アフリカの各地を制圧したが、ポルトガル勢力は1698年にタンザニアから駆逐された。その後19世紀に入るとオマーン帝国のサイイド・サイードが東アフリカに侵攻し、沿岸部を勢力圏に置いた後、1840年にザンジバルに遷都した。この時期にタンガニーカでは南方の現在の南アフリカ共和国に相当する地域からンゴニ人が進出した。

ザンジバル・スルタン国奴隷貿易で栄え、この時期には「ウテララのスルターン」ことアラブ人の奴隷商人ティップー・ティプが現在のコンゴ民主共和国東部にまで影響力を及ぼし、後のスワヒリ語の普及の一因となった。しかし、19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスとザンジバルとの対立が生じた。アフリカ分割が始まると、1885年にドイツ東アフリカ会社が大陸部に進出し、ドイツ領東アフリカが成立した。翌1886年に新興のドイツ帝国タンガニーカを、イギリスがザンジバルを分割する協定が結ばれ、1890年のヘルゴランド=ザンジバル条約でザンジバルはイギリスの保護国となった後、1896年のアングロ=ザンジバル戦争に敗北した。

タンガニーカでも抵抗運動は続き、アブシリの反乱ムクワワのゲリラ戦争の後に、1905年には最大の反乱となったマジ・マジ反乱が勃発したが、この反乱は敗れ、植民地化が確定した。第一次世界大戦が勃発すると、東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人(アスカリ)を中心としたゲリラ部隊がイギリス軍などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。第一次世界大戦後、大陸側もイギリスの保護領となった。

1939年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは87,000人が出征した[2]。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線でイタリア軍と、ビルマ戦線日本軍との戦いを繰り広げ、インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人が存在した。

第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の潮流の中でタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)が次第に支持を集め、1961年12月9日に大陸側のタンガニーカがジュリウス・ニエレレ大統領の下で独立。1963年にはザンジバル王国も主権を獲得し、独立した。しかし、翌1964年1月にザンジバルで革命が勃発し、アラブ人の王族が追放されてザンジバル人民共和国が成立したため、ニエレレの汎アフリカ主義の精神の下で両国は連合し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立した。同年、両国の名称とかつてこの地域で栄えたアザニア文化の名称を複合し、タンザニア連合共和国と改称した。


独立後、連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレスワヒリ語公用語とし、内政面では1967年のアルーシャ宣言以降ウジャマー社会主義を採用して社会主義の建設を目指した。対外的には中華人民共和国との関係を深め、アフリカ諸国との関係においても白人支配を続ける南アフリカ共和国ローデシアポルトガルと敵対し、1964年にモザンビーク独立戦争が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ議長の指導するモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援し、解放区を提供した。この時期にタンザニアはFRELIMOのみならず、ナミビア南西アフリカ人民機構(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同盟(ZANU)を支援している。さらに国内でも、1977年にそれまで別組織だったタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)とアフロ・シラジ党(ASP)が統合し、統一政党としてのタンザニア革命党が成立した。1971年にミルトン・オボテイディ・アミンのクーデターによって追放されて以来隣国ウガンダとは対立が続き、1978年にアミンがタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍カンパラを攻略してアミン失脚の一因となった(タンザニア・ウガンダ戦争)。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。

1980年代に入ると第二次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任し、ムウィニの下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められた。

1995年に与党タンザニア革命党から就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。

2005年に与党タンザニア革命党からジャカヤ・キクウェテが大統領に就任した。

政治

タンザニアは共和制大統領制国家体制とする立憲国家である。現行憲法1977年4月25日に制定(1984年10月に大幅改正)されたもの。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相および閣僚は大統領により任命されるが、閣僚は国民議会議員でなければならない。

「タンザニアの大統領一覧」および「タンザニアの首相一覧」も参照

立法府一院制で、正式名称は国民議会。定数は274議席で、うち232議席は国民の直接選挙枠、37議席は大統領が任命する女性議員枠、5議席はザンジバル議会の議員枠である。議員の任期は5年である。

1992年以来、タンザニアでは複数政党制が認められているが、タンザニア革命党(CCM)による政権が独立以来続いている。その他の政党の勢力は脆弱だが、市民統一戦線(CUF)と民主進歩党(CHADEMA)が比較的有力である。

「タンザニアの政党」も参照

連合共和国政府とは別に、ザンジバルには独自の自治政府であるザンジバル革命政府および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、およびペンバ島の2州である。ザンジバル大統領はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。現在のザンジバル大統領はアマニ・アベイド・カルメ(CCM所属)。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、入国管理手続きが存在する。タンガニーカの独自政府は存在しない。

軍事

詳細はタンザニア軍を参照

タンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約27,000人である。兵制は志願制を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された[3]

国際関係

独立以来、社会主義政策を採用したニエレレ大統領の下で親東側外交と第三世界外交が実践され、特にソビエト連邦よりも中華人民共和国との友好関係が築かれた。ザンビアからタンザニアに至るタンザン鉄道も中華人民共和国の援助によって建設された。アフリカ域内においては第三世界主義の下、南アフリカ共和国アパルトヘイト政権やローデシアの白人政権、モザンビークを支配していたポルトガルとの対立を続けると共に、対白人少数派支配のアフリカ南部との最前線として近隣のザンビアやモザンビーク解放戦線(FRELIMO)、南西アフリカ人民機構(SWAPO)などの各植民地の独立派組織などと友好関係を保った。その一方で親西側を採る近隣諸国とは対立し、1978年にはタンザニア・ウガンダ戦争が勃発した。

地方行政区分

詳細はタンザニアの地方行政区分を参照

タンザニア連合共和国は、タンガニーカの21州、ザンジバルの5州(Unguja, Pemba)から成る。

タンガニーカ:
首相府、地方自治国務相(Minister of State, Regional Administration and Local Government)の下、政令行政区上位から州(Region)、県(District)、郡(Division)、区(Ward)、村(Village/Street)と定められている。その他、県と郡の間に選挙区(Constituency)、村の下に隣組(Sub-Vilage)が存在する。また、行政系統がRegional AdministrationとLocal Governmentに分かれており、連合共和国政府レベルの行政系統としてRegional Administration(州、県、郡)、地方政府の行政系統としてLocal Government(県、区、村)となっている。
ザンジバル:

地理

タンザニアの面積945,087km²は世界31位の広さでエジプトに続き、ナイジェリアとほぼ等しい。北東部にアフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5,895m)があり、北部にアフリカ第一のビクトリア湖、西部にアフリカで最も深いタンガニーカ湖がある。この南のニアサ湖を含めアフリカ三大湖が存在する。これらはアフリカ大地溝帯が形成したものである。中部には高原が広がる。東部海岸は蒸し暑い気候で、ザンジバル島(ウングジャ島)がすぐ沖合にある。

生態学上貴重な野生公園が数多くある。北の有名なンゴロンゴロ保全地域セレンゲティ国立公園、そして南にセルース猟獣保護区とミクミ国立公園、西のゴンベ国立公園はジェーン・グッドオール博士がチンパンジーを研究した所である。タンザニア政府観光省が南西部ルクワ地域にあるカランボ滝を観光拠点にしようと努めている。この滝はタンガニーカ湖南端にあり、アフリカ第二の規模である。

主要都市

詳細はタンザニアの都市の一覧を参照


経済

農業

キリマンジャロコーヒーは上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに茶が栽培される。ビクトリア湖周辺では、漁業綿花栽培を中心とした農業が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲されるナイルパーチスズキに食感が似た淡水魚)は加工され、世界各地に輸出されている。

鉱業

鉱業では、宝石タンザナイトを産出することで有名である。 金は南ア、ガーナに次ぐ産出がある。近年、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。

国民

民族

バントゥー系黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%程のヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する[3]。ザンジバルではアラブ系、アフリカ系黒人の他に、両者の混血が存在する[3]。主な民族はスクマ人、ハヤ人、ニャキュサ人、ニャムウェジ人、チャガ人などである。

言語

言語は、スワヒリ語英語公用語である。

スワヒリ語は国語の扱いを受けており、1967年のウジャマー社会主義政策の採用以来、スワヒリ語の近代言語化や教育による普及が進められた。タンザニア憲法はスワヒリ語で書かれており、大衆文化の中でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽などで用いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語は国民統合のための言語としての地位を与えられている[4]

宗教

宗教は、タンガニーカではキリスト教が30%、イスラム教が35%、伝統的宗教が35%である[3]。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教である[3]

教育

学制は初等教育が7年、前期中等教育が4年、後期中等教育が2年、高等教育が3年の7-4-2-3制。義務教育は初等教育のみである。初等教育は2001年より無償化し、これにより就学率が大幅に向上した。現在、初等教育の就学率は97.3%である。前期中等教育は20.7%、後期中等教育は0.9%。教育言語は、初等教育は公用語であるスワヒリ語であるが、中等教育以降は英語が教育言語である。

2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は69.4%(男性:77.5%、女性:62.2%)である[3]。1999年にはGDPの2.2%が教育に支出された[3]

主な高等教育機関としては、ダルエスサラーム大学やソコイネ農業大学の名が挙げられる。

保健

「タンザニア国家エイズ対策プログラム」も参照

タンザニアにおける2007年のHIV感染者は推計で約140万人であり[3]、感染率は6.2%である[3]。タンザニア人の平均寿命は52.01歳(男性:50.56歳、女性:53.51歳)である[3]

文化

音楽

ポピュラー音楽においては、1980年代からダルエスサラームで発達したレゲエヒップ・ホップの影響を受けたボンゴフレーバー、ザンジバルで発達したタアラブ、モダン・タアラブなどが存在する。

伝統音楽においては、親指ピアノンゴマなどが存在する。

美術

「アフリカ美術」も参照

南部に居住するマコンデ人のシェタニ(精霊)をモチーフとした黒檀の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。現代タンザニアを代表する画家ジョージ・リランガもシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。

その他にタンザニアで発展を遂げたポップ・アートとしてエドワード・サイディ・ティンガティンガが1960年代に大成したティンガティンガ派絵画の存在が挙げられる。

世界遺産

タンザニア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が4件存在する。詳細は、タンザニアの世界遺産を参照。

文化遺産

国立公園・国立保護区

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Mwaka Mpya
1月12日 ザンジバル革命記念日 Mapinduzi ya Zanzibar 1964年、ザンジバルで革命
4月26日 統合記念日 Muungano wa Tanganyika na Zanzibar 1964年、タンガニーカとザンジバルが統合
5月1日 労働者の日 Sikukuu ya Wafanyakazi メーデー
7月7日 産業の日 Saba Saba
8月8日 農業の日 Nane Nane (Siku ya Wakulima)
10月14日 ニエレレの日 Kumbukumbu ya Mwalimu Nyerere タンザニア初代大統領/1999.10.14没
12月9日 独立記念日 Uhuru na Jamhuri 1961年、タンガニーカ独立
12月25日 クリスマス Kuzaliwa Kristo
12月26日 ボクシング・デー Siku ya Kupeana Zawadi

参考文献

  • 岡倉登志編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、2002年12月。
    • 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002年12月。
    • 宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002年12月。
  • 栗田和明、根本利通編著『タンザニアを知るための60章』明石書店、2006年7月。
  • 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代史II──東アフリカ』山川出版社、1990年2月第2版。

脚注

  1. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.153
  3. ^ CIA World Factbook "Tanzania" 2010年2月16日閲覧。
  4. ^ 宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002年12月。

関連項目

外部リンク

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