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テマ制

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テマ制(テマせい ギリシア語:θέματα、Themata)とは東ローマ帝国中期の地方行政制度。日本語では軍管区制とも呼ばれる。なお、「テマ」という言葉は元々ギリシャ語で「軍団」を表す言葉であるため、ここで述べるテマ制が開始される前から存在するが、この記事とは異なった意味で使用されていることに注意する必要がある。また、中世ギリシャ語では「セマ」となる。

概説

初期の東ローマ帝国の地方制度は古代ローマ以来の属州制度を継承していた。即ち、中央から派遣された属州総督が行政を担当し、国境線の防衛は軍司令官が担当するという、軍事と行政の分担制度である。

しかし、ヘラクレイオスの時代ともなると、ユスティニアヌス1世以来の相次ぐ戦役により国家財政は悪化し、サーサーン朝ペルシア帝国は辛うじて退けたものの、新たに勃興してきたイスラム帝国やバルカン半島のブルガール人の侵攻により毎年のように首都コンスタンティノポリスが脅かされるようになり、従来の中央集権型の地方制度では敵国の同時侵攻に対応しきれなくなっていた。そこで異民族の侵入に素早く対応できるようにするために、現地の防衛司令官(監督官、Catapan)が行政権を兼任するテマ(軍管区制)が導入された。

かつてはテマ制はヘラクレイオス王朝統治下で計画的に導入されたとする見方が多かったが、現在では各地を防衛していた軍団が臨時に取った措置を帝国政府が追認したものではないかとする見解もある。いずれにせよ、未だに国際ビザンツ学会でも論争中であり、テマの起源については戦乱の時代で記録が少ないことも合って諸説あるのが現状である。[1]

テマ制とは、兵装を自前で用意できるストラティオスと呼ばれる自由農民を兵士として徴発して国土の防衛に当たるという兵農一致の制度であり、自分の土地を守るために戦う兵士たちの士気は当然のことながら高かった。

バルカン半島方面では自由農民の他にも勇猛さで知られたスラヴ人なども任用され、これも戦闘力の増強に一役買ったという。このストラティオティスは屯田兵でもあり、これらが各地に入植することで拠点を構築し、税収増や国防力強化へと繋がっていく。初期には土地の委譲が法律によって禁止されていたため、テマ単位での大規模な屯田を行うなど帝国によって厳重に統制されていた。特にコンスタンス2世の時代にスラヴ人を小アジアに入植させた政策は有効だったらしく、彼の時代にはウマイヤ朝を創始してイスラム帝国を継承したムアーウィヤも東ローマの小アジアにおける防衛線は突破することが出来なかった。

テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人ペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。ヘラクレイオスの時代にはサーサーン朝イスラム帝国の侵攻によって従来の帝国の穀倉地帯であったシリアエジプトが奪われており、「パンとサーカス」という言葉で有名な小麦の配給も廃止せざるをえなくなるほど帝国全体の生産力が低下していた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。

脚注

  1. ^ 後世の東ローマの人間たちにとってもテマ制度の起源は謎であったらしく、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は『テマの起源について』という書を記し、解説を試みている。

関連項目

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