| ファビオ・カペッロ | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | Don Fabio | |
| ラテン文字 | Fabio CAPELLO | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | イタリア | |
| 生年月日 | 1946年6月18日(63歳) | |
| 出身地 | イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県サン・カンツィアン・ディゾンツォピエリス | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1964-67 1967-69 1969-76 1976-79 |
スパル ASローマ ユヴェントス ACミラン |
49 (3) 62 (11) 165 (27) 65 (4) |
| 代表歴 2 | ||
| 1972–1976 | イタリア | 32(8) |
| 監督歴 | ||
| 1987.X-6 1991-96 1996-97 1997-98 1999-04 2004-06 2006-07 2008- |
ACミラン ACミラン レアル・マドリード ACミラン ASローマ ユベントス レアル・マドリード イングランド代表 |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年1月13日現在。 2. 2008年1月13日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ファビオ・カペッロ(Fabio Capello, 1946年6月18日 - )は、イタリア共和国サン・カンツィアン・ディゾンツォ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現イングランド代表監督である。
現役時には、ACミラン、ASローマ、ユヴェントスなどに在籍し、活躍。またイタリア代表としても活躍した。
目次 |
1964年にスパル1907で選手キャリアをスタート。1967年にASローマへ移籍すると、1969年にコパ・イタリア制覇に貢献し、自身初となるタイトル獲得を経験した。この活躍により強豪ユヴェントスへ移籍、同クラブでは1976年までの7シーズン在籍し、3度のスクデット制覇に貢献した。その後、1976-77シーズンからACミランへ移籍すると、1978-79シーズンに自身4度目となるスクテッド制覇に貢献。このシーズンを最後に現役を引退した。
イタリア代表としても1974 FIFAワールドカップ西ドイツ大会を始め32試合出場8得点を記録した。彼の選手キャリアにおいてのハイライトシーンは、1973年11月14日にウェンブリー・スタジアムで行われたイングランドとの試合である。この試合で唯一の得点を決め1-0で下し、対イングランド戦におけるアウェーでの初勝利をもたらした。
引退後はイタリアのテレビ局専門のサッカー解説者を務めていたが、1986-1987シーズンの途中からシーズン終了までACミランの暫定的な監督を務め指導キャリアをスタート。その後4年のブランクを経て、前任のアリゴ・サッキの後任として1991年にACミランの監督に正式に就任した。
数多くのスーパースターを抱え「グランデ・ミラン」と呼ばれた当時のミランを見事にまとめ上げ、5年間で4度のスクデット獲得(リーグ優勝)と1度のUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たし、監督としての地位と評価を獲得した。
1996年にレアル・マドリードの監督に就任。ここでも就任初年度にリーグ優勝を果たしたが、堅固な守備を第一とする戦術に攻撃的なサッカーを求めるレアルのサポーターから批判を浴び、わずか1年で退任。再びACミラン監督に就任するも、1年後に退任した。
1999年にASローマの監督に就任。2000-2001シーズンにローマに18年ぶりのリーグ優勝をもたらした他2度の2位という実績を残した後、2004-2005シーズンからはユヴェントスへ電撃移籍。就任初年度にリーグ優勝を達成した。ユヴェントス就任後、2年連続でセリエA優勝の快挙を果たすが、2005-2006シーズンのカルチョ・スキャンダルによるセリエB降格と共にクラブを離れ、レアル・マドリード監督に再度就任した。
序盤もたついたものの終盤には立て直し、奇跡の逆転劇の末、ロス・ガラクティコと呼ばれ迷走していたレアル・マドリードに4シーズンぶりのリーガタイトルをもたらせた。シーズン終了後に選手達は監督続投を希望するものの、6月28日に前回の解任時と同様の理由で監督解任が発表された。レアル・マドリードを就任初年度に優勝させ、直後にクラブを去るのはこれで2度目となりカペッロ自身はインタビューの中でもう一度レアルから監督就任の話が来ても行く事はないだろうと語っている。
2007年、ユーロ2008の予選から敗退した責任で前任のスティーブ・マクラーレンが解雇された後、サッカーイングランド代表監督の座に興味を示し自ら進んでアピール。12月15日に正式に監督就任が決定した。2008年1月7日から活動し、4年半の契約になる。カペッロ自身、イングランド代表監督という仕事は「私のサッカー人生の集大成」と語っている。
監督としては、堅実な守備を基本に据えた上でのカウンターサッカーを基本戦術とし、最小得点差での勝利やケースによっては引き分けも良しとする結果優先の采配が特徴。就任した先々のクラブでタイトルを獲得することから「優勝請負人」の異名を持つ。世界的な監督の一人である。代表級の選手達を自らの指揮下に上手に束ねて結果を出す能力は光るものがある。その一方いわゆる「育成型」の監督ではないため、自分の求める選手がいないとすぐに不満を見せ、モチベーションを落としていく監督でもある。基本的に資金の豊富なビッグクラブの監督にしか向いていないタイプである。
純粋な競争の激化による選手の質の向上を謳っており、年齢や実績の差を基準とするヒエラルキーを自身のチーム内に置かないことで知られる。厳格な規律を敷き、いわば選手を自身の支配下に置いた関係・采配を行う、「私のチームで先発を勝ち取る条件とは唯一つ、それは好敵手を圧倒するモチベーション、それ以外にない」と語っている[1]。このような理由から、久しく新人不在に思われたレアル・マドリードに20歳のフェルナンド・ガゴ、19歳のゴンサロ・イグアイン、18歳のマルセロを呼び寄せ、カンテラ出身の21歳のルベン・デ・ラ・レー、21歳のミゲル・トーレスらを現有戦力に引き上げた実例がある。
非常に競争を意識した規律を重んじており、(本人の言葉を借りれば)この「必要な調和」[1]を破る者にはメディアを通じての批判を行ったり構想から外すなど容赦ない制裁措置を取る。レアル・マドリード時代にデイヴィッド・ベッカムがシーズン途中にMLS行きを決めると、チームへの忠誠心が足りないとすかさず構想外にしたのがいい例である[2]。また選手にはプロフェッショナルであることを強く求めており、例え先発を外されても選手はその意図を理解し、また自らを犠牲にする術を知る、その相互関係がチームの強さになるとして、この点でカペッロはアレッサンドロ・デル・ピエロをイタリアが世界に誇るべき偉大な男とかなりの敬意を表している[3]。
一方で非常に勝利主義の考え方が強いのも事実で、自身が望む働きを選手ができなければ簡単に切り捨てる傾向にある。そのためパオロ・マルディーニなどの元教え子達に批判される事もしばしば。1997-98シーズンにACミランで成績が10位に終わると、その中でも一目置いていたマルセル・デサイーに「私は君だけを残し、他の全員を放出する」[4]と言ったというようなエピソードが多々ある。ちなみにこの時はカペッロとデサイーが放出された。
スタメンレベルの選手を複数確保しシーズンを通して使い分けるという、現在では強豪クラブの常識となったターンオーバー制を初めに確立した人物とされる。
選手補強には「背骨の強化」という縦軸の確立・強化に尽きる持論を持っており、戦術上のバランスの確保を考慮しながらも確実にして大胆な補強を行うことで知られる。例えば2000年のASローマ(DFサムエル、MFエメルソン、FWバティストゥータ)、2004年のユヴェントス(DFカンナヴァーロ、MFエメルソン、FWイブラヒモビッチ)、2006年のレアル・マドリード(DFカンナヴァーロ、MFエメルソン、FWファン・ニステルローイ)などがある。また基本的に現状を注意深く見極め、状況を精査しながらチーム像を着々と形に作り上げていくとしており、必要最小限の補強の重要さ、確かさも自身の考え方として力説していてる。これらに反映され積み上げた結果に対する自負から、移籍市場に関する知識と経験には絶対の自信を持っており、クラブ首脳陣らによるマーケットおよびファン獲得を目的とした補強プラン、補強への介入には「笑わせてもらっては困る」とお固い姿勢を貫いており、「契約を結んだ以上、会長は招聘した指揮官を信じ、補強を一任させれば、それでいい」と語る。[5]
| シーズン | 指揮クラブ | リーグ戦成績 | ヨーロッパカップ戦成績 |
|---|---|---|---|
| 1986-1987 | ACミラン | セリエA 5位 | 不出場 |
| 1991-1992 | ACミラン | セリエA 優勝 | 不出場 |
| 1992-1993 | ACミラン | セリエA 優勝 | UEFAチャンピオンズリーグ 準優勝 |
| 1993-1994 | ACミラン | セリエA 優勝 | UEFAチャンピオンズリーグ 優勝 |
| 1994-1995 | ACミラン | セリエA 4位 | UEFAチャンピオンズリーグ 準優勝 |
| 1995-1996 | ACミラン | セリエA 優勝 | UEFAカップ ベスト8 |
| 1996-1997 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ 優勝 | 不出場 |
| 1997-1998 | ACミラン | セリエA 9位 | 不出場 |
| 1999-2000 | ASローマ | セリエA 5位 | UEFAカップ ベスト16 |
| 2000-2001 | ASローマ | セリエA 優勝 | UEFAカップ ベスト16 |
| 2001-2002 | ASローマ | セリエA 2位 | UEFAチャンピオンズリーグ ベスト16 |
| 2002-2003 | ASローマ | セリエA 8位 | UEFAチャンピオンズリーグ ベスト16 |
| 2003-2004 | ASローマ | セリエA 2位 | UEFAカップ ベスト16 |
| 2004-2005 | ユヴェントス | セリエA 優勝(のちに剥奪) | UEFAチャンピオンズリーグ ベスト8 |
| 2005-2006 | ユヴェントス | セリエA 優勝(のちに剥奪) | UEFAチャンピオンズリーグ ベスト8 |
| 2006-2007 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ優勝 | UEFAチャンピオンズリーグ ベスト16 |
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