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三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。
229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。
当項目では広義の三国時代について記載する。
目次 |
後漢朝は創立当初から地方豪族の力が強く、経済力を持った彼らは中央政府に一族を官僚として送り込み、また皇帝の后に一族の娘を送り込むことで外戚となり、更に大きな勢力を誇った。しかし159年に外戚の梁冀が宦官の力を借りた桓帝に誅殺された後は宦官が中央を牛耳るようになり、そのことに豪族たちは強い不満を抱いていた。宦官は、本来生殖能力を喪失した男性であるが、養子をとることにより、世襲貴族となることを志向する者も現れ(魏の祖となった曹操の祖父である曹騰はその一例である)、豪族層の反感をかきたてた。
豪族たちは宦官勢力を濁流と呼び、自分たちを清流と呼んで宦官たちを非難した。これに対して宦官たちはこれを弾圧するために党錮の禁(禁錮、当時の用語で公職停止を意味する)と呼ばれる弾圧を行った。一方では悪政が続く中で民衆の生活は窮迫し、これらの民衆は張角が教祖の太平道という道教の祖の一つされる宗教団体に救いを求めるようになった。
多くの民衆を吸収した太平道は184年についに反乱を起こす(黄巾の乱)。宦官はこの乱の発生に困惑する。宦官たちには軍の指揮は出来ないので、どうしても豪族たちを起用する必要がある。朝廷は皇后の兄である何進を大将軍とし、党錮の禁を解いて皇甫嵩・朱儁らを将軍に任じて鎮圧に当たらせた。官軍の奮戦により黄巾軍を何度か撃破し、途中で張角が病死したこともあり、同年、鎮圧に成功した。しかし鎮圧後も中央政府の悪政は変わらず、民衆の不満も豪族たちの不満も解消されないままであり、各地に黄巾の残党が散らばったことで反乱は続いていた。
その中で時の皇帝霊帝が崩御する。その後継を巡って何皇后が生んだ劉弁と、霊帝の母の董太后に養育された劉協の間で後継争いが起こるが、劉弁、何皇后側が勝利し、皇帝に即位した(少帝弁)。後継争いに勝利したことで宦官勢力を押さえ込んだ何進は、名門の出身である袁紹に唆されて宦官誅滅を図るが、逆に宦官に殺される。これを見た袁紹たちは宮中に入り込んで宦官を虐殺し始めた。この混乱の中で少帝(劉弁)と陳留王(劉協)は宮廷の外へと連れ出され、何進の呼びかけに応えて洛陽へやってきていた西涼の董卓により保護される。朝廷の実権を手中にした董卓は洛陽に暴政を布き、少帝を廃して陳留王を皇帝につけた(献帝)。
これに反対する刺史・太守などの軍閥たちは各地で反董卓の軍を挙げて、連合して董卓を攻めた。連合軍と董卓軍は何度か激突するが、董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で西の長安へと皇帝を連れて引き揚げていった。もともと利害の不一致から戦意に乏しかった連合軍はこれをきっかけに崩壊し、軍閥たちはそれぞれの兵士を引き連れて根拠地へと引き返していった。
この時点での後の三国の創始者たちの動向だが、魏の創始者である曹操は連合軍には参加しており、自前の兵力は少なかったが、鮑信と手を組んで、董卓軍に果敢に挑んだが、大敗して逃亡、積極的な割には大きな成果を上げることはできなかった。蜀漢の創始者である劉備は連合軍の中の公孫瓚の配下の一武将に過ぎなかった。呉の創始者である孫権の父親の孫堅は陽人の戦いで董卓軍を破り、董卓の武将である華雄を討ち取るなど目立つ活躍を見せた。
董卓はその後、長安でも暴政を布くが、192年に司徒の王允と部下の呂布により殺される。董卓の勢力は部下の李傕・郭汜らに引き継がれた。李傕・郭汜らは王允・呂布を破り、献帝を手中に収めるが、暴政を布いたので三輔は荒廃した。また李傕・郭汜らは内紛を起こし、献帝は東に逃亡して洛陽に入った。
そのころ、曹操が兗州で青州から来た黄巾賊の兵30万人・非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大していた。
また、曹操は父の曹嵩や弟の曹徳を陶謙が殺したとして、敵討ちの為に徐州の陶謙を攻め、大勝したが、通過した地域で多くの人を虐殺した。しかし、194年、曹操の親友の張邈と部将の陳宮が呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、曹操の領地である兗州の大半は呂布のものとなった。曹操は呂布との激戦の末に兗州から呂布を駆逐し、兗州を取り返した。呂布は徐州刺史の劉備を頼り、劉備の保護を受けた。
東に逃れた献帝は196年に曹操の拠点である許昌に連れて行かれ、曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として使い、政略を有利に進めていった。以後、許昌は許都と呼ばれる。196年、曹操は屯田制を開始している。
北では韓馥から冀州を譲り受けた袁紹と幽州に割拠する公孫瓚が対立し、東の徐州には劉備を追い出した呂布が、南では荊州を中心として劉表が、河南を中心に袁紹の従兄弟である袁術とその配下になっていた孫堅が勢力を広げていたが、孫堅は途中で戦死する。その後、息子の孫策が揚州に勢力を拡大し始めた。
197年、袁術は皇帝を自称するが、このことで袁術は求心力を失い、部将の孫策らの離反を招き、その勢力は急激に衰えていった。
曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一する。一方、袁紹も公孫瓚を滅ぼして、河北・山西を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となった。両雄は200年の官渡の戦いで激突する。当初は兵力に勝る袁紹が有利であったが、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとした。曹操はその後のしばらくは袁紹の息子の袁譚・袁尚らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の張燕を降伏させ、袁氏に味方した袁紹の甥の高幹や烏桓(烏丸)族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。
荊州の劉表が死去すると、曹操は南征を開始した。まず劉表の後を継いだ劉琮の降伏を受け入れて荊州を併呑した。これにより劉表の元に身を寄せていた劉備は南へ逃れることとなり、荊州で出会った諸葛亮の献策によって孫策の後を継いだ孫権と同盟して曹操を迎え撃つ体勢を整えた。曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて激突し、孫権配下の周瑜や黄蓋らの活躍により、曹操軍を破った(赤壁の戦い)。
戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史に擁立、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。敗れた曹操は北へ引き返して、以後は南征を控えて華北の経営と軍事力の回復を中心に行うことになる。孫権は劉備とともに南郡を攻め取り、南郡を獲得した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。その後、劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。
210年、孫権は交州刺史の歩騭を派遣して、交州の実質的な支配者である士燮を服属させた。
214年に劉備は益州刺史の劉璋を攻め降して荊州に加えて益州も領有し、ここで三国鼎立の形が定まった。劉備が益州を奪取した後、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求したが、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返還するとして履行をさらに延期した。そこで業を煮やした孫権は怒り、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになったが、和解し、劉備は長沙・桂陽を孫権に割譲し、同盟友好関係が回復した。
赤壁以後の曹操は南を攻めることは控え、西の雍州・涼州にいる韓遂・馬超ら豪族連合を攻め下して、河北・中原地域を完全に領有した(潼関の戦い)。さらに漢中にいた五斗米道の張魯を降伏させる。また朝廷における官位も上昇し、213年には魏公となり、216年には魏王となった。
これに対する劉備としては、曹操軍による漢中制圧は非常な重大事であり、この地を抑えられるとこの方面から北上することはほぼ不可能になる。そこで219年に劉備は自ら出兵して、これに従軍した黄忠や趙雲の奮闘もあり、守将・夏侯淵を討ち漢中を奪った(定軍山の戦い)。この地を獲った劉備は漢中王を名乗る。この称号はかつて劉邦が漢中(南鄭)の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる。
荊州の劉備領を守備していたのは関羽で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城・襄陽を包囲した。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に長江南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃させた。そして、関羽の隙を突いた孫権の部下の呂蒙・陸遜の策にはまり、関羽は孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権は部下の提言もあり、一時は劉備との対立をそらすため、関羽の首を曹操の元へ送ることで打倒曹操を掲げる計画を立てたが、逆に劉備の怒りを増大させることになり対立は深まった)。
220年に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して221年に皇帝に即位、漢の後継者と称した(蜀(蜀漢)の創設)。
皇帝となった劉備だが、長年の部下である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり、大敗(夷陵の戦い)、劉備は退却し白帝城で病死した。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。
蜀漢に大勝した呉は、長江南部の地域に確固とした基盤を築いたことから、魏に対して屈辱的な姿勢をとる必然性も無くなり、元号を黄武と定め、独立色を明確にした。更に劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。
魏の文帝・曹丕は内政面に意を砕き、新しく九品官人法を施行した。この法は南北朝時代末期まで適用されることとなる。文帝は226年に40歳で死去、曹叡が後を継いだ(帝号:「明帝」)。
蜀漢の諸葛亮は魏に対する北伐作戦を最終目標とし、そのための足場固めのために225年には南征を行い、2年後の227年に出師の表を奉り、北伐を決行した。この戦いは7年間・5度に及ぶが、諸葛亮は魏の曹真・張郃・司馬懿らの前に侵攻を阻まれ、武都・陰平の二郡を獲得するにとどまった。234年の最後の北伐の最中、陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。その後の蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦を実行しなかったが、姜維が軍権を握ると北伐を繰り返し国力を消耗した。
呉では229年に孫権が皇帝を名乗り、一時代に一人だけの名目だった皇帝が同時に三人並ぶことになった。
230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。
この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。
234年から3年間、呉の諸葛恪・陳表・顧承らは揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を6万人徴兵した。
235年、魏の幽州刺史の王雄の命令を受けた韓龍は、鮮卑族の軻比能を暗殺した。
呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年、倭の卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武将・毌丘倹が高句麗首都を陥落させている。
239年、曹叡は早世し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺害し、権力を掌握した。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。
その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと司馬昭に受け継がれる。この間、255年の毌丘倹の乱や257年の諸葛誕の反乱などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。
呉では、孫権が皇太子の孫和と孫和の弟の孫覇の両人をほぼ同等に処遇したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、吾粲が処刑され、陸遜が流罪となり憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、250年、孫和が廃太子され、七男の孫亮を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された(二宮事件)。
252年に孫権は死去し、孫亮が10歳で皇帝となると、太傅・大将軍の諸葛恪が呉の政権を握った。諸葛恪は孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で非常に多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり呉の政権を握った。
孫峻は自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。256年に孫峻が病死すると、孫峻の従弟の孫綝が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失敗に終わった。孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立され皇帝となった。孫休は孫綝がクーデターを計画していると聞くと、張布・丁奉らと対策を練り、孫綝を捕らえ、処刑した。
蜀漢では、255年に姜維が魏を攻めて大勝したが、256年の段谷の戦いで大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。258年以降、蜀漢では宦官の黄皓が政治を乱し、皇帝の劉禅は遊び呆けていた。蜀漢を滅ぼす機会と見た司馬昭は鍾会・鄧艾らを派遣して、263年に蜀を滅ぼした(蜀漢の滅亡)。
司馬昭は265年に死去し、息子の司馬炎(武帝)が後を継ぐ。司馬炎は魏の曹奐からの禅譲を受けて、魏が滅び、西晋が建国された。その後、しばらくは内部を固めることに時間をかけたが、呉で孫皓が皇帝として立ち、暴政を行っていることを聞いた司馬炎は出兵し、280年に呉を滅ぼし、ついに統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。
統一後の武帝はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに武帝は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、死後には後継者恵帝が無能な為に后一族らと司馬一族による権力争い(八王の乱)が起こった。この乱で国力を消耗した晋は劉淵による漢(前趙)の建国とその侵攻によって晋は統一から30年で崩壊(永嘉の乱)し、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。
196年、魏の基礎を作った曹操は棗祗・韓浩らの提言を採用し、屯田制を開始している。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、次第に任峻らの尽力などにより軌道に乗った。官渡の戦いの時点では曹操軍は兵糧の確保に難航している。屯田制により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。
曹操は降伏させた烏桓(烏丸)族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を軍隊に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。
曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や氐族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。
220年、魏の皇帝の曹丕は、陳羣の意見を採用し、九品官人法という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は郷挙里選が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、郡の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、貴族層が形成されるようになった。
呉の皇帝の孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。
呉は、揚州の非漢民族である山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。諸葛恪や陸遜や賀斉らが山越討伐で多大な功績を挙げている。
魏の鄧艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。
川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発(開拓)の尖兵であった」としている[1]。
蜀(蜀漢)の初代皇帝になる劉備は、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。蜀科は厳しい内容であったが、公平であったと言われている。
劉備は劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値の貨幣を作り、貨幣制度を整備した。
益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。
この時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた[2]。
当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。例えば、後漢末の桓帝の永寿三年(157年)に5648万[3]を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である[4]。
数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。が、それでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや[5][6]、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある[7]。
また、中国において最初の発音記号であるとされる反切が登場したのもこの時期であり、漢民族人口の激減の為、言語・発音の混乱が起こり、その為に、為政上、文化保存上、なんらかの対応処置が必要になったのであろうと分析する説もある[8]。また、地理志などの公式統計以外にも、例えば三国末期や西晋初頭の史書中に見られる各国政府高官(皇甫謐(晋)や陳羣(魏)、朱照日(呉)等)の発言においても、「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」などといった当該現象を示唆する箇所が複数あり[9]、これらの記述も激減の傍証として使われることが多い[10](ただし、「10分の1」というのは、大幅な戸数の減少を意味する脚色で、実際には規定上郡県の戸籍には掲載されない屯田民の方が戸籍民よりも多く、彼らを含めればそこまでの戸数の減少はなかったとする見方もある[11])。
なお、前漢末に発生した王莽の混乱前における人口数は平帝の元始二年(2年)において5959万余[12]であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った建武中元二年(57年)は2100万程度[13]で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。
曹丕・曹植兄弟は詩人としても有名で、曹植は「詩聖」と称されるなど高く評価され、曹丕は文学論である『典論』を著作し、中国文学界に大きな影響を与えた。また、蜀の諸葛亮の『出師表』は名文として高く評価され、今日でも有名である。
魏の何晏・王弼らが「玄学」を創始し、老荘思想を発展させた。また、竹林の七賢は清談を行い、老荘思想に大きな影響を与えた。
魏の馬鈞は指南車や水転百戯と呼ばれる水で動くからくり人形の雑技団・楽隊を作った。
魏の劉徽は『九章算術』の注釈のなかで、円周率を計算して、3.1416という近似値を得ている(「円周率の歴史」参照)
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