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日本の政治家
与謝野 馨
よさの かおる
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| 生年月日 | 1938年8月22日(71歳) |
| 出生地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 東京大学法学部卒業 |
| 前職 | 日本原子力発電従業員 政治家秘書 |
| 所属政党 | 自由民主党(無派閥) |
| 称号 | 法学士(東京大学・1963年) |
| 世襲の有無 | 無 |
| 公式サイト | 与謝野馨Official Web Site |
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第11代 財務大臣
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| 内閣 | 麻生内閣 |
| 任期 | 2009年2月17日 - 2009年9月16日 |
| 退任理由 | 内閣総辞職のため |
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| 内閣 | 麻生内閣 |
| 任期 | 2009年2月17日 - 2009年9月16日 |
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内閣府特命担当大臣
(経済財政政策担当) |
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| 内閣 | 麻生内閣 |
| 任期 | 2008年9月24日 - 2009年7月2日 |
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内閣府特命担当大臣
(経済財政政策・規制改革担当) |
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| 内閣 | 福田康夫改造内閣 |
| 任期 | 2008年8月2日 - 2008年9月24日 |
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第74代 内閣官房長官
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| 内閣 | 安倍改造内閣 |
| 任期 | 2007年8月27日 - 2007年9月26日 |
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その他の職歴
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| 内閣府特命担当大臣 (金融・経済財政政策担当) (2005年10月31日 -2006年9月26日) |
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| 第63代 通商産業大臣 (1998年7月30日 -1999年10月5日) |
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| 第121代 文部大臣 (1994年6月30日 -1995年8月8日) |
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| 衆議院議員 (1976年12月10日 - 1979年9月7日) (1980年6月22日 - 2000年6月2日) (2003年11月9日 -現職) |
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与謝野 馨(よさの かおる、1938年8月22日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(通算10期)。
文部大臣(第117代)、内閣官房副長官、通商産業大臣(第63代)、自由民主党政務調査会会長、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策、規制改革担当)、内閣官房長官(第74代)、財務大臣(第11代)などを歴任した。
目次 |
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に与謝野秀(しげる)・道子の長男として生まれる。父・秀は歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻の二男で外交官であった。生後すぐに父が中国・北京に赴任したため、馨も0歳にして北京に移る。日本に帰国した4歳の頃、祖母・晶子が死去している。戦時中、父はベルリンの日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母と共に交番に連れて行かれたこともあったという。戦争末期には東京大空襲にも遭遇している。港区立麻布小学校卒業後、麻布中学校に進学。
父がエジプト勤務になったときは、カイロ郊外・ヘリオポリスのイングリッシュスクールに編入学している。このころ、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれたという。その後、イギリスのオックスフォード大学への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。麻布高校に編入学する。卒業後、駿台予備学校で1年間の浪人を経て東京大学文科I類に入学。いわゆる全学連世代だが、学生運動には一切関わらなかった。駒場時代は授業に失望して文学書を濫読。学生時代の記憶に残る本として有島武郎の「カインの末裔」、後々まで自分の思考に影響を与えた本として、碧海純一「法哲学概論」、団藤重光「刑法綱要」などを挙げている。硬式野球部に所属し、マネージャーを務める。このときの2年後輩に新治伸治がいる。
1963年東京大学法学部卒業。母の知人・中曽根康弘の紹介で日本原子力発電に入社する[1]。日本原子力発電では、当初技術部に配属され、後に外交官となる今井隆吉係長の薫陶を受け、英語専門文献の翻訳なども手がけた。後に事務系に転じ、米国での資金調達や原子力保険といった金融業務に従事していた。
会社の命により、民社党の核拡散防止条約に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行。調査団メンバーは後の委員長佐々木良作を始め曽祢益、岡沢完治、渡辺朗。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。この訪欧中にドイツで中曽根康弘と邂逅、このことが政界入りの直接の契機となった。中曽根とは就職の斡旋以来、勉強会などを通じて親交があったが、帰国後にやはり同じ勉強会のメンバーであった渡邉恒雄を通じて秘書にならないかと誘いを受けた。
1968年日本原子力発電を退職し、中曽根の秘書となる。この頃読んだシュテファン・ツヴァイクの「ジョセフ・フーシェ」は愛読書の一つであり、著書などでフーシェに触れることが多い。
1972年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧 東京都第1区から自由民主党公認で立候補するが落選。1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補し初当選。中曽根派に所属する。
1979年の第35回衆議院議員総選挙で大平正芳が打ち出した一般消費税による逆風を受け落選したが、1980年の第36回衆議院議員総選挙で、日本社会党委員長の飛鳥田一雄を抜きトップ当選し返り咲いた。以後、科学技術・通商産業関係を皮切りに、通商産業政務次官、自由民主党商工部会長、衆議院商工委員長などを歴任し、商工族、政策通として頭角を現す。中曽根派に所属しながらも、商工族の実力者であった、梶山静六の門下ともいうべき関係を形成。1994年、自由民主党が政権復帰した村山内閣で文部大臣として初入閣した。
1996年、第2次橋本内閣では、師事していた梶山が内閣官房長官を務めており、通常なら総理派閥から選出される内閣官房副長官(政務)に他派閥ながら就任して橋本政権を支えた。 1998年、小渕内閣で通商産業大臣に就任。通商産業大臣でありながら、所轄外の(法務省管轄の)通信傍受法成立に力を注ぎ、『噂の眞相』などに「盗聴法成立の黒幕」と批判された。
2000年4月の第42回衆議院議員総選挙で民主党の海江田万里に敗れ落選。自由民主党は民主党に都市部を中心に議席を奪われ、「1区現象」と呼ばれる事態に陥ったが、閣僚経験者で総裁候補とも目されつつあった与謝野の落選は、1区現象の象徴として大きく報じられた。なお、与謝野の落選について小泉純一郎は後に、「落選していなければ自分ではなく与謝野さんが総理になっていた」と述べている。
浪人時代はCS放送「朝日ニュースター」を始めマスメディアにしばしば登場、その頃誕生した小泉内閣の構造改革に当初は批判的であったが、徐々に方針転換して改革にも一定の理解を示すようになった他、復活を期した2003年の総選挙前に派閥を離脱した。これには、当時所属派閥であった志帥会における亀井静香との権力抗争での敗北という事情もあった。
2003年、第43回衆議院議員総選挙で選挙区では海江田に敗れたが、比例復活で当選。2004年、自民党政調会長に就任し、小泉首相の進める郵政民営化に尽力、翌年9月に行われた第44回衆議院議員総選挙では、海江田に対して比例区での復活を許さないほどの圧倒的な勝利を収めた。2005年発足の第3次小泉改造内閣では、内閣府特命担当大臣(金融・経済財政政策担当)に就任。
2006年9月26日に安倍政権が発足、安倍とは通信傍受法の成立にあたって協力したほか、財界との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、内閣官房長官として与謝野を起用する構想があったとされるが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたという[2]。結局自由民主党税制調査会会長に就任したが、就任直後の10月に口内に痛みを覚えるなどしたため入院し、11月には税調会長を辞任、療養生活に入った。
2007年1月初旬に退院した後も自宅療養を続け、同年4月13日の衆院本会議に出席し政治活動を再開した。同年6月8日に発売された『文藝春秋』7月号に寄せた随筆「告知」にて、喉頭癌による入院だったことを公表した。
2007年8月27日発足の安倍改造内閣において内閣官房長官に就任。改造にあたって安倍は菅義偉の起用を模索したが、菅の事務所費問題から断念し与謝野を指名した。与謝野の起用は麻生太郎幹事長のアドバイスによるものとされる。
2007年9月12日、所信表明演説直後に突如安倍が辞任表明。安倍が入院しても首相臨時代理は置かれなかったが、官房長官である与謝野が官邸を事実上仕切り、「与謝野官邸」と呼ばれた。また、同様に党務を仕切った麻生とともに、麻生クーデター説のやり玉の一人に挙げられ、強く批判された(その後この説はデマと判明)。同年9月26日の福田康夫内閣発足に伴い内閣官房長官を退任した。
福田政権では自民党税制調査会の小委員長に就任したが、政権の指南役として薬害肝炎問題の議員立法を提案し、解決に導くなど[3]存在感を見せる。
10月の大連立構想においては、かつての中曽根・渡邉との関係から、ある程度の動きは掴んでいたようである。自身も大連立には肯定的な発言をしているが、特に具体的な行動は起こさなかった。福田・小沢会談の直前に小沢と囲碁で対決し、メディアから大連立に関する話し合いが行われたと報道されたが、与謝野本人は大連立とは全く関係が無いと主張している。
2008年2月20日、派閥横断型勉強会「正しいことを考え実行する会」(正しい議連)の活動再開を機に、同会に参加する。8月2日、福田内閣の内閣改造により内閣府特命担当大臣(経済財政政策、規制改革担当)に就任。福田康夫首相の辞任表明に伴う自民党総裁選挙に出馬(推薦人名簿には自身の選挙区の千代田区で法律事務所経営する森雅子や千代田区で生まれ育った若宮けんじといった新人国会議員が名を連ねた)。財政再建を訴えて2位につけ、麻生太郎内閣では経済財政担当大臣に再任した。
2009年2月17日、財務大臣並びに金融担当大臣である中川昭一が先進7ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議に於ける失態を理由として辞任したことに伴い、その後任に指名されたため、与謝野一人で経済関連3閣僚を兼任することとなった。兼任は予算成立後に解かれる予定だったが、結局7月2日の閣僚補充で経済財政担当大臣に林芳正が任命されるまで続いた。同月行われた東京都議選で自民党が敗れた事により党内の麻生おろしが最高潮に達すると重要閣僚でありながら麻生の自発的辞任を求める立場に立ったが、最終的には麻生内閣の下での衆議院解散に同意した。第45回衆議院議員総選挙では再び民主党の海江田万里に敗れたものの比例代表で復活当選。9月4日と9月5日に開かれるG20財務相・中央銀行総裁会議には病気を理由に出席しない意向を示した[4]。
9月16日、麻生内閣総辞職によって、財務および金融担当大臣を辞職した。
村上ファンドから2004年の政治資金収支報告書記載分として40万円の献金を受けていた。[9]
道路特定財源を資金源とする道路運送経営研究会(道路特定財源の一般財源化に反対している)から献金を受けている。[10]
福島県知事の汚職事件に関連していた大手のゼネコンである前田建設工業の取締役名誉会長を務めていた前田又兵衛から献金を受けていた。前田は汚職事件が発覚した後、取締役名誉会長職を辞任している。与謝野側は「何かあったら返さなくてはいけないというのは、その人に失礼だ」として受けた献金を返還しない意向を示している。[11]
1986年から与謝野の私設秘書を務め、一時は公設秘書も務めていた46歳男性が、地下鉄駅の階段で女性の尻を触り、痴漢容疑で2008年8月25日に書類送検されている。秘書は「左手の甲が偶然ぶつかった」と弁明していたが、階段が混雑していなかったことを追及され、容疑を認めた。秘書は退職願を出し8月22日に退職している。[12]
身長169cm、体重60kg、血液型B。
敬虔なカトリック信徒である。
趣味はゴルフ、パソコンの自作、囲碁、写真撮影、天体観測、釣りなど多岐にわたっている。
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 中川昭一 |
財務大臣 第11代:2009年 |
次代: 藤井裕久 |
| 先代: 伊藤達也 中川昭一 |
特命担当大臣(金融) 第8代:2005年 - 2006年 第14代:2009年 |
次代: 山本有二 亀井靜香 |
| 先代: 竹中平蔵 大田弘子 |
特命担当大臣(経済財政政策) 第7代:2005年 - 2006年 第10・11代:2008年 - 2009年 |
次代: 大田弘子 林芳正 |
| 先代: 岸田文雄 |
特命担当大臣(規制改革) 2008年 |
次代: 甘利明 |
| 先代: 塩崎恭久 |
内閣官房長官 第74代:2007年 |
次代: 町村信孝 |
| 先代: 堀内光雄 |
通商産業大臣 第63代:1998年 - 1999年 |
次代: 深谷隆司 |
| 先代: 赤松良子 |
文部大臣 第117代:1994年 - 1995年 |
次代: 島村宜伸 |
| 先代: 藁科満治 |
内閣官房副長官(政務担当) |
次代: 額賀福志郎 |
| 議会 | ||
| 先代: 中西啓介 |
衆議院議院運営委員長 第50代:1993年 |
次代: 奥田敬和 |
| 党職 | ||
| 先代: 額賀福志郎 |
自由民主党政務調査会長 第46代 : 2004年 - 2005年 |
次代: 中川秀直 |
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![]() 10:13 | 人権擁護法案を成立させます、与謝野馨総理で by小沢一郎 |
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![]() 00:46 | 衆院選 東京1区の自民 与謝野 馨氏、民主 海江田 万里氏に敗れる |
| 再生回数:157回評価:なし提供:You Tube | |
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![]() 06:41 | 【総裁選】街頭演説会・渋谷ハチ公前広場(与謝野馨) |
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![]() 01:55 | 与謝野馨ものまね 総裁選公開討論会(声まねです) |
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