幸福(こうふく、英:Happiness)とは、自ら満ち足りていると感じており、安心している心理的状態のこと。
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幸福は極めて主観的なものである。恋愛に例えれば分かりやすいが、個人・個性の数だけ価値観があるが、あくまでも本人の主観的な価値観によって、本人が満ち足りていると感じている心理状態をいう。
客観に外形的様式として所定の状態があるわけではない。また、幸福度を数値化(定量化)することも出来ない。例えば、本人以外の誰かには “幸福ではない”と見える状況にいるとしても、その評価はあくまで観察者の主観におけるものであり、その状況を当人が幸福だと感じていれば、それはまさしく幸福である。
幸福を欲求の充足に結びつけて考えてしまう人にとっては、欲求が満たされればそれは以前の状態に比べて幸福ということにはなるが、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが理解出来ずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで、欲求が限りなく膨張しつづけそれを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない。そんなこともあり、欲求に重点を置いた社会心理学者アブラハム・マズローの説明では、人の欲はある段階を達成すれば更なる高い段階を基準とするために「絶対的幸福というものは存在しない」などともされた。
この辺りは「曲肱の楽しみ」(曲肱:肘枕で寝る事・貧しい事の例え)等の語が端的に表している通り、やはり「楽しい」「幸福である」という状態はその主観において主体的に見出す事であり、如何なる状況においても、みずからの「心のありかた」を意識的に選び取ることよって見出すことができるとされている。
人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、一般に「幸福論」(Eudaemonics)と呼ばれている。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることであるとして、幸福主義をとなえた。
ヘレニズム期の哲学においては幸福について考えが分かれる二つの学派があった。ストア派とエピクロス派である。ストア派は理性に従い欲望を制御してどんなことがあっても動じない状態即ち「アパテイア」が幸福であるとし、エピクロス派は欲望を追求し快楽を得ることが幸福であるとした。ただし、エピクロス派の求める快楽は一般的に思われるように単純に享楽を求めるような快楽主義ではなく、激しい快楽を求めるのではなく、むしろ穏当な快楽、静かな心の平安即ち「アタラクシア」である。一般にストア派は「禁欲主義」、エピクロス派は「快楽主義」と呼ばれているが、このように静かな心の穏やかさを目指した面では軌を一にしている。これら二つがヘレニズム期の幸福論の類型としてあったということであり、欲望をどのように扱うかが、幸福論の中心的な課題であった[1]。ストア派は理性に従い徳を高めることが幸福であるとする一種の主知主義の立場である。エピクロス派は刹那的な快楽主義とは異なっており、適切な快楽が生の条件であるとするものである。
ヴィクトール・フランクルは人間が実現できる価値を3つに分類している。
創造価値、体験価値の実現は一般的に言われる幸福な状態である。最後の態度価値は一般的には幸福と言い難い悲惨な状態のなかでも実現できる価値であり、「いわゆる幸福」だけが人間にとっての価値ではないことを意味している。
新宮秀夫は幸福とは満足、安心、豊かさなど人の願うことの中そのものにあるのではなく、それを得ようとしたり持続させようとする緊張感の中に幸福があるとする。そして幸福についての考え方を、複雑性に応じて四つの段階に分類する。数字が上の階は下より高級ということではなく、下の階の考え方を前提とすることにより成り立っているということである。
「棺を蓋いて事定まる」(『晋書』・劉毅伝)という格言は、ある現象が、その人物にとって果たして本当に幸福か否かは、その後の長い期間を経過しなければ、単純には判別出来ない複雑性がある、ということを述べている。なお落語には「人の値打ちと煙草の味は、煙になって判るもの」(意:煙草は火を付けて吸うまで良し悪しが判らないが、人は葬式が終わって火葬されるまでは、どれだけの価値があったかが正確には判じ難い。)という件もあるという。
例えば、ある人が子供の頃に憧れた職業に進むため、適性を無視してその方向に邁進、結果として途中で挫折した場合には、当人にとって大変な損失であり不幸である。よしんばその途中過程で、まだやり直しが利く段階での成功は、その瞬間には「幸福な出来事」といえるのかもしれないが、結果論から言えば「いよいよやり直しが利かなくなる状態に陥っただけ」ともいえる。
故事を引用すれば、古代中国の『淮南子』人間訓に「人生万事塞翁が馬」(元の僧、熙晦機の漢詩「人間萬事塞翁馬 推枕軒中聽雨眠……」の冒頭。)がある。「塞翁が馬」とも称されるこの話には、人の幸不幸は縒って作った縄の目のように、交互に訪れる(「禍福は糾える縄の如し」・幸も不幸も交互に訪れるため片方ばかりは続かない)などの類似する故事・説話・慣用句なども数多い。
1980年代から幸福感に関する心理学的・精神医学的な研究が盛んになってきた。[3]。
世界各地の110万人のデータを検討したマイヤースらの1996年の研究によると、2割の人が「とても幸福である」と答え、約7割の人が「かなり幸福」あるいは「それ以上」と答えていた。
ある程度以上裕福な先進諸国においては、個人の経済的裕福さと幸福感との間には関連性が見られなくなる[4]。 統計学的に見て、幸福感に大きな影響を与えているのは、婚姻状況[5](未婚/既婚/離婚の違い)および信仰心であった(注. ここでいう「信仰心」とは、主としてキリスト教の信仰のことである)。世界14ヶ国、16万人余りを対象とした国際研究では、幸福であると答えた人の率は、信仰心があつく、礼拝や儀式にもよく参加する人で高かった[6]。
様々な統計的データによって明らかになったことは、幸福感の基線を決めるのは、環境の客観的な条件ではなく、個々人の内的特徴(「信仰心」や「ものの考え方」など)である、ということである[7]。
また、幸福感を持っている人に共通する内的な特徴は4つある、ともいわれる。自分自身が好きであること、主体的に生きているという感覚を持てていること、楽観的であること、外向的であること[8]。
また、人は価値のある活動に積極的に参加し、自身のゴールをめざして前進するときに、より多くの幸福を感じることができる[9]。
なお、法律でも幸福は扱われている。基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の幸福追求権を不当侵害しない限りに於いて、制約される事は無い。他の表現をするならば、いくら己の幸福を追求していようが、他者の幸福を侵害しないことには注意を払う必要がある、ということである。
ある人物が幸福であるか否かは、上述の様に、客観的なものではなく、あくまでも主観的な感情であるため、周囲から判断することは困難である。また精神病の上では幸福感が得られなくなる症状もあり、発症者には適切な治療が必要である。
幸福感を得られなくなる病気としてうつ病がある。この病気は絶望感で悶絶するもので、患者自身にとってうつ病は他に比較できない苦痛を発生させ、何ごとに対しても思考することが困難な状態に陥り、極度の絶望感に苛まされることになる。この状態では無意味に苦しいだけなので、現代医学の視点からすれば一刻も早く心療内科や精神科に駆け込み、適切な治療を受けるべきである。
うつ病は現代医学において治療法が確立されていることもあり、投薬などの治療によって回復後に本人自身が思い返して「一体何故あんなに思い詰めていたのだろうか」と呆れる程にドラスティックに回復する病気でもある。また同症の発症は「心の風邪」という形容詞が示すように、「誰でも発症する恐れがあるが、放置すれば命にかかわることもある(万病の元)」でもあるため、早めの治療こそが有効といえよう。
ところが、本人が病気と認めず治療もせずに絶望感のなかで頑張り過ぎた挙句自殺してしまうケースも、日本を含む先進諸国を中心に社会問題となっている。
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