大和(やまと)とは、古代から明治初期まで、現在の奈良県域を指す。古くは「倭」と表記した。
また、日本を表す時に使われる言葉でもある。例として、大和民族、大和魂などなど。
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元々は大和王朝の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、大和王朝が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和とよばれるようになった。さらに支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。
「やまと」の語源は諸説ある。
古墳時代ごろに漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して倭と呼んでいたが[1]、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年までの期間に、国号が「日本」と定められたとされている[2]が、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。[3]
奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、和銅初年(701年)には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
奈良中期の737年(天平9)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19)には再び「大倭国」へ戻された。そして、752年(天平勝宝4)もしくは757年(天平宝字元)橘奈良麻呂の変直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。当時の正史である『続日本紀』には何故か改元の記事が漏れている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
大和古墳群がある。
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