大相撲(おおずもう)は、
大相撲(おおずもう)は、日本相撲協会が主催する相撲興行。主たる開催地である日本国内においても、その他の国においても一般に「相撲」と言えば大相撲を指すほど著名な競技興行である。東京での開催場所が国技館であるが、国技と言う法制度は日本にないため、特に国技と言うわけではない。詳しくは国技館や国技#日本の国技の項目でも述べているが、「自称・国技」のようなものである。ただし後述するように、相撲の歴史は非常に長く、天皇家との関わりも深いと考えられている。
目次 |
現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について叙述する。
興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)と言われている。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、1648年(正保4年)には幕府によって江戸における辻相撲禁止令が出された。その後、1684年(天和4年)、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。この時の興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。このとき、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の回向院での開催が定着したのは、1833年(天保4年)のことである。
『相撲傳書』によるとこの頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7~9m(4~5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。寛文年間(17世紀半ば)には格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に延宝年間(1670年頃)に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。享保年間(18世紀始め)に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。
江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年(宝暦7年)のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある(日下公人「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74)。
しかし江戸相撲は、1789年(寛政元年11月)、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年(寛政3年6月11日)上覧相撲を成功させる[2]。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。
1827年(文政10年)、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。
幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年(嘉永6年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。
1863年(文久3年6月3日)、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となったものもいた。
プロ興行としての大相撲では、公式戦(技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある)である本場所は年間6回行われる。
本場所のない時期には、地方巡業を行う。本場所の回数の少なかった時代には、各部屋や一門別に巡業をしていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。
地方巡業は、各地の興行を希望する〈勧進元〉と呼ばれる人たちが協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形(売り興行)で長年行われてきた。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年(昭和33年)以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。
地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。
詳細は「本場所」を参照
2010年現在
| 開催月 | 正式名称 | 通称 | 開催場所 |
|---|---|---|---|
| 1月 | 一月場所 | 初場所 | 両国国技館 |
| 3月 | 三月場所 | 春場所 | 大阪府立体育会館 |
| 5月 | 五月場所 | 夏場所 | 両国国技館 |
| 7月 | 七月場所 | 名古屋場所 | 愛知県体育館 |
| 9月 | 九月場所 | 秋場所 | 両国国技館 |
| 11月 | 十一月場所 | 九州場所 | 福岡国際センター |
詳細は「花相撲」を参照
海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。
| 回数 | 開催年月 | 名 称 | 都 市 | 備 考 |
|---|---|---|---|---|
| 第1回 | 1965年7月-8月 | ソ連公演 | モスクワ、ハバロフスク | 日ソ復交調印10周年記念 |
| 第2回 | 1973年4月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中国交正常化記念 |
| 第3回 | 1981年6月 | メキシコ公演 | メキシコシティ | |
| 第4回 | 1985年6月 | アメリカ公演 | ニューヨーク | 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念 |
| 第5回 | 1986年10月 | パリ公演 | パリ | 東京パリ友好都市提携5周年記念 |
| 第6回 | 1990年6月 | ブラジル公演 | サンパウロ | |
| 第7回 | 1991年10月 | ロンドン公演 | ロンドン | 日英協会設立100周年記念 |
| 第8回 | 1995年10月 | ヨーロッパ公演 | ウィーン、パリ | |
| 第9回 | 1997年6月 | オーストラリア公演 | メルボルン、シドニー | 日豪外交100周年記念 |
| 第10回 | 1998年6月 | カナダ公演 | バンクーバー | |
| 第11回 | 2004年2月 | 韓国公演 | ソウル、釜山 | 日韓共同未来プロジェクト |
| 第12回 | 2004年6月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中定期航空路線開設30周年記念 |
| 第13回 | 2005年10月 | ラスベガス公演 | ラスベガス | ラスベガス市制100周年記念 |
| 第14回 | 2009年10月(中止) | ロンドン公演 | ロンドン | 世界的な不況により中止 |
協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。
国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、そこでスカウトされたジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア青年が高見山大五郎の四股名で関脇にまで昇進した。
| 回数 | 開催年月 | 名称 | 都市 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 第1回 | 1962年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
| 第2回 | 1964年2月 | ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | 角界拳銃密輸事件が起こる |
| 第3回 | 1966年 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
| 第4回 | 1970年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
| 第5回 | 1972年2月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
| 第6回 | 1974年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | |
| 第7回 | 1976年6月 | ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | |
| 第8回 | 1981年6月 | アメリカ巡業 | サンノゼ、ロサンゼルス | |
| 第9回 | 1992年6月 | スペイン、 ドイツ巡業 | マドリード、デュッセルドルフ | |
| 第10回 | 1993年2月 | 香港巡業 | 香港 | |
| 第11回 | 1993年6月 | アメリカ巡業 | ホノルル、サンノゼ | |
| 第12回 | 2006年8月 | 台湾巡業 | 台北 | 13年ぶりに海外巡業が復活 |
| 第13回 | 2007年6月 | ハワイ巡業 | ホノルル | 14年ぶりのハワイ巡業 |
| 第14回 | 2008年6月 | ロサンゼルス巡業 | ロサンゼルス | |
| 第15回 | 2008年8月 | モンゴル巡業 | ウランバートル |
大相撲では、成績などを考慮して大きく2つ、小さくは6つのクラスに分けられ、このクラス内で対戦をするのが基本である。クラス内の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。
上位リーグは幕内と十両(十枚目)からなり、いわゆる関取と呼ばれるクラスの力士で構成される。その中でも最上位リーグに位置するのが幕内であり、番付上位から横綱・大関・関脇・小結・前頭の順位となる。三役とは小結以上を指し、前頭は「平幕」と呼ぶことが多い。
本場所の取組は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「初日(しょにち)」、8日目を「中日(なかび)」、最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ぶ。幕内の取組は、幕内力士土俵入り、横綱土俵入りの後、16:15頃(以下日本時間)から行われ、千秋楽を除き大体18:00前後に全取組が終了する(大相撲中継に合わせるため)。
1日の最後の取組は、「結び(の一番)」と呼ばれる。また、全取組終了後に弓取式が行われ、これが終わった時点でその日の日程は終了(このことを「打出し」と呼ぶ)となる。また、千秋楽に限り、残り3番となったところで、取組を控えた6人の力士が東西それぞれ3人ずつ土俵に上がり揃い踏みを行う。これを「これより三役」と呼ぶ。
幕内に続く上位リーグが十両で、15:00頃から15:50頃にかけて取組が行われる。下位リーグは、上位から幕下、三段目、序二段、序ノ口となっており、序ノ口には新規入門力士が多く登場する。関取を目指そうと、9:00頃から始まり15:00頃まで取組が行われる。さらに序ノ口の取組前には、番付にも載らない入門したての力士たちによる前相撲が行われる。
幕内と十両では1場所で1人15番、幕下以下は1人7番の取組を行い、勝利数で優勝者を決める。勝利数が同じ場合は優勝決定戦を行う。リーグは総当たり制ではなく、本割(ほんわり、正規の対戦)では同じ部屋に所属する力士同士は対戦しない。これは部屋別総当たり制と呼ばれる。部屋が違っても実の兄弟同士のおよび実の叔父甥の関係の取組は組まれないのが不文律であったが、2009年(平成21年)1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる。場所中の取組で白星(勝利)を多く重ねてくると、下位であっても終盤の対戦相手に上位の力士を割り当てられる。
力士が本場所の取組で過半数(十両以上は8日、幕下以下は4日)勝つことを「勝ち越し」、これに満たないことを「負け越し」という。次の場所では勝ち越した力士の番付が上がり、負け越した力士の番付が下がる。ただし、横綱・大関は最上位の番付であるため昇進には厳しい条件がつけられているほか、横綱に降格はなく、大関の降格も2場所連続負け越しの場合に限られる(大関が負け越して翌場所陥落の可能性があることを角番という)。
十両と幕下以下では力士の待遇で示すとおり大きく待遇が異なるため、幕下上位の取組や十両下位力士と幕下との取組では熾烈なものとなる。好角家にはこれらの取組を楽しみにしているものも多い。
番付には、東と西という区別がある。江戸時代から明治時代にかけては、東と西に分けられており、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。
1890年(明治23年)5月に、横綱免許を受けていた大関・初代西ノ海嘉治郎が張出大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。
1909年(明治42年)の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを東西制と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が優勝旗手の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合(非出羽方)びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。
なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては系統別総当たり制で東西の区別もなかった。
1932年(昭和7年)の春秋園事件の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、一門による系統別総当たり制を幕内でも実施するようになった。しかし、出羽海部屋の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年(昭和15年)1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、伊勢ヶ濱部屋や朝日山部屋の力士が東西に振り分けられることさえあった。(もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった)
戦後、大相撲の人気回復のために、優勝決定戦や三賞制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、1947年(昭和22年)11月場所から、系統別総当たり制に戻した。しかし、立浪部屋と時津風部屋が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子(羽黒山政司と双葉山)というだけの関係で対戦がないことや、二所ノ関一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、1965年(昭和40年)1月場所から、完全な部屋別総当たり制を実施し、現在に至っている。
平成時代初期に、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中したことから、個人別総当たり制が話題になったこともあったが、養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりから考えると、個人別総当たり制の実現は今後もまず不可能であると考えられる。
詳細は「新弟子検査」を参照
大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。
(2006年1月現在、単位:円)
| 項目 | 横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 |
|---|---|---|---|---|---|
| 月額給与 | 282万0,000 | 234万7,000 | 169万0,000 | 130万9,000 | 103万6,000 |
| 年額給与 | 3,384万0,000 | 2,816万4,000 | 2,028万0,000 | 1,570万8,000 | 1,243万2,000 |
| 年額賞与 | 564万0,000 | 469万4,000 | 338万0,000 | 261万8,000 | 207万2,000 |
| 特別手当 | 120万0,000 | 90万0,000 | 30万0,000 | ||
| 出張手当 | 115万5,000 | 99万7,000 | 85万0,000 | 74万5,000 | 68万2,000 |
| 力士補助金 | 7万5,000 | 7万5,000 | 7万5,000 | 7万5,000 | 7万5,000 |
| 力士褒賞金 | 60万0,000 | 40万0,000 | 24万0,000 | 24万0,000 | 16万0,000 |
| 年額報酬 | 4,551万0,000 | 3,723万0,000 | 2,632万5,000 | 2,058万6,000 | 1,622万1,000 |
十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。支給単位は本場所ごとになっているため、11月場所で十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。このため、幕下陥落が確実になり引退の意思を表明した力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付発表後まで遅らせ、番付に名を残すケースも多い。
賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。
本場所特別手当は、三役以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日~10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。
出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。
力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。
詳細は「力士褒賞金」を参照
幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。
(2006年1月現在、単位:円)
| 項目 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
|---|---|---|---|---|
| 場所手当 | 150,000 | 100,000 | 80,000 | 70,000 |
| 年額報酬 | 900,000 | 600,000 | 480,000 | 420,000 |
また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。 (2006年1月現在、単位:円)
| 項目 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
|---|---|---|---|---|
| 勝星奨励金 | 2,500 | 2,000 | 1,500 | 1,500 |
| 勝越金 | 6,000 | 4,500 | 3,500 | 3,500 |
このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。
力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)し、共同の食事である「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。
懸賞 (相撲)を参照。
十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。
(2006年1月現在、単位:円)
| 横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 資格者 | 15,000,000 | 10,000,000 | 7,630,000 | 7,630,000 | 4,750,000 |
| 非資格者 | -- | -- | 7,630,000 | 4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000 | 1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000 |
番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。
(2006年1月現在、単位:円)
| 横綱 | 大関 | 三役 | 平幕 | 十両 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 横綱 | 500,000 | 400,000 | 250,000 | 200,000 | 150,000 |
| 大関 | -- | 400,000 | 250,000 | 200,000 | 150,000 |
| 三役 | -- | -- | 250,000 | 200,000 (150,000) | 150,000 |
| 平幕 | -- | -- | -- | 200,000 (150,000) | 150,000 |
| 十両 | -- | -- | -- | -- | 150,000 |
横綱・大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。
かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。
力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。
| 地位 | 幕内 | 十両 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 髷 | 大銀杏 | 丁髷 | ||||
| 服 | 紋付羽織袴 | 着物・羽織(外套・襟巻も着用可) | 着物・羽織 | 着物(浴衣もしくはウール) | ||
| 帯 | 博多帯 | ベンベルグ | ||||
| 履物 | 足袋に雪駄 | 足袋に雪駄(エナメル製) | 素足に雪駄(エナメル製) | 素足に下駄 | ||
| 稽古廻し | 白色・木綿 | 黒色・木綿 | ||||
| 取り廻し | 博多織繻子 | 黒色・木綿 | ||||
| 下がり | 取り廻しの共布 | 紐 | ||||
| 足袋の色 | 白 | 黒 | ||||
| 控えの敷物 | 私物の座布団(色は自由) | 共用の座布団(紫) | 共用(畳) | |||
このほかにも以下のような違いがある。
なお、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、初っ切り、甚句、断髪式の時は大銀杏が結える。
歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(相撲会所、現在なら相撲協会に相当)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。
三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていたが、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。もちろん、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うにこまるまで困窮する力士も少なかったが、本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。
明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。
1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質が国会でも問題視されて以降、月給制など力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所と相撲協会主導の地方巡業によって、一年のほとんどを拘束される力士たちに対して、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」などの声もある。一方で、税金対策や引退時の退職金制度など、表面に表れにくい部分で他のプロスポーツよりむしろ充実しているという見方もある。たとえば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける相撲診療所があったり、社会保険組合を独自に運営していたりする点、また厚生年金制度を導入していることなど、福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。
金銭の面に関しては、角界というのは、とにかく後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源のひとつになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへかなり有力な人物がタニマチとしてバックに付くと、優勝すれば1,000万以上の祝儀が集められるという。とくに千代の富士全盛時は一晩で5,000万集まったという。横綱の月給が282万であり、他のプロスポーツのトップクラスに比べて相当に安いのだが、これは角界ではこういった後援者からの祝儀が表面の給与に比べて大きな比重を占めているという現実がある。とくに年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金など、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。
大相撲は、力士が大銀杏などまげ(髷)を結うなどの日本の伝統的・古風な文化の他、土俵上への女性の立ち入りを認めない(春場所は2000年以降、時の大阪府知事・太田房江による知事賞の直接授与が認められなかった)など、男性優位の「伝統」が強く保たれている。その為、一部のフェミニストからは異論の声があがっている。
横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なのが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き、「準年寄」制度の導入などで対応したが、それでも数々のトラブルが発生している。なお、準年寄制度は2007年に廃止された。小錦、若乃花(花田勝)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。なお、年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所管の財団法人であることが大きい。現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らの中には協会に残るために日本国籍を取得(帰化)している(前述の元関脇・高見山、先代・東関親方など)。
また、度々力士養成員の手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルが指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。
大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えたのが大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。
一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる(稽古に名を借りた)私刑が横行している状況であり、下位力士に対し竹刀を用いて身体を叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。
こうした問題点を反映してか、近年の日本では力士になりたいと思う少年が次第に減少し、2007年の名古屋場所では新弟子検査の受検者が0人であった。さらに大学相撲出身者と外国人力士の増加により、宗教色を帯びた伝統的な儀式というよりも一般スポーツ競技の一種としか捉えていない力士も多い。
| 区分 | 解消前 | 改称後 |
|---|---|---|
| 力士 | 廃業 | 引退 |
| 引退 | ||
| 年寄 | 廃業 | 退職 |
| 停年[3]、退職 | ||
佐ノ山
以下の雑誌が定期的に刊行されている。
※NHK大相撲中継のみ隔月刊=場所前に発行、他は月刊誌。VANVAN相撲界は1998年終刊
![]() 04:26 | ごっつええ感じ チームファイト#68 けんか大相撲 1/2 |
| 再生回数:164回評価:なし提供:You Tube | |
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![]() 04:36 | ごっつええ感じ チームファイト#68 けんか大相撲 2/2 |
| 再生回数:94回評価:なし提供:You Tube | |
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![]() 06:27 | 貴乃花 vs 魁皇 解説:親方ビジョン(大相撲ダイジェスト) |
再生回数:2,497回評価: 提供:You Tube | |
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![]() 02:03 | 大相撲初場所 八日目 「誰が上手いこと言えと」 |
再生回数:234,398回評価: 提供:You Tube | |
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![]() 09:39 | 大相撲札幌場所2008-かわいがり |
再生回数:29,543回評価: 提供:You Tube | |
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