| 広島東洋カープ | |
| 会社名 | 株式会社広島東洋カープ |
|---|---|
| 創設年度 | 1950年 |
| 所属リーグ | |
| セントラル・リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
|
|
| 収容人員 | 33,000人 |
| フランチャイズの遍歴 | |
| 広島県(1952年 - 現在) | |
| 永久欠番 | |
| 3:衣笠祥雄 | 8:山本浩二 | |
| 獲得タイトル | |
| 日本一(3回) | |
| 1979 | 1980 | 1984 | |
| リーグ優勝(6回) | |
| 1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年) | |
| 1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991 | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 松田元 |
| 運営母体 | 松田家(マツダ創業者一族)[1] |
| 監督 | 野村謙二郎 |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 本社所在地 | 〒732-8501 広島市南区南蟹屋2丁目3-1 |
| 設立 | 1956年1月[2] |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロ野球興行 |
| 代表者 | 松田元 |
| 資本金 | 3億2,400万円[2] |
| 売上高 | 71億円 (08年12月期)[2] |
| 従業員数 | 102人 (09年11月現在)[2] |
| 主要株主 | マツダ34.2%、松田元20.4%、カルピオ18.5%、松田弘12.2%、松田勢津子10.1%[1] |
| 関係する人物 | 松田恒次、松田耕平 |
| 特記事項:勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男でアンフィニ広島社長。 | |
広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
広島県を保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。
親会社を持たない市民球団として結成されたという、ほかの球団と比較して特異の歴史を有する(マツダはカープと関連してはいるが会社としての球団への経営参加はしていない)。現在は松田家による同族経営となっている。
メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される。
現在、日本プロ野球12球団で最も日本一及びリーグ優勝及びAクラス入りから遠ざかっているチームである。(最後の日本一は1984年、リーグ優勝は1991年、Aクラス入りは1997年(3位)である。)また、12球団の中では唯一21世紀に入ってから一度もAクラスに入っていない。
有名人のファンにお笑い芸人・チュートリアル徳井義実、TBSアナウンサーの安東弘樹、アンガールズ、筑紫哲也(故人)、久米宏、元フジテレビアナウンサー山中秀樹、元極楽とんぼの山本圭一、元猿岩石の有吉弘行、ユニコーンの奥田民生、ポルノグラフィティの岡野昭仁、浜田省吾などがいる。
オフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。
3月10日に福岡平和台球場でセ・リーグ開幕戦が行われたが、選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。 本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、石本秀一が自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが、寄せ集めチームは著しく低迷する。
深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な400万円(当時)を集め、球団も四方八方手を尽くし解散を回避[3]した。この年は7球団による20回総当りの120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。とくに広島は最下位決定のあと、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[4]。
開幕前には7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補だったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、勝率.316で解散を免れた[5]。この年限りで石本は退任し、代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団。小鶴誠、金山次郎の入団だけで大パレードを敢行し、続いて獲得した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)、光吉勉入団の際にはさらに盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。
1952年から53年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
オールスターのファン投票で、長谷川良平・小鶴誠・白石勝巳の3選手がトップ当選。「集団投票事件」などと批判を浴びた。
この年から1960年まで白石が監督を務める。成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割を果たす。
1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用したが、1973年に別当薫が監督就任すると、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。
1962年まで門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。この間、広島市民球場に本拠地を移転した。
1963年~1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。
東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となり、球団名を現在の広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同属経営球団となる。根本陸夫監督が就任。外木場義郎・安仁屋宗八両投手の活躍もあって3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄・山本浩二・水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。
2年連続でシーズンを勝ち越したが、根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。
球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子、ヘルメットの色が赤になった。ルーツはシーズン途中で退団し、後任に古葉竹識が選ばれた。
中日・阪神と熾烈な優勝争いを繰り広げ、球団初優勝を果たす。日本シリーズでは、阪急ブレーブスと対戦するも4連敗(正確には、4敗2分)で敗北。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた[6]。以降、カープは球団史上に残る黄金時代に突入する。
胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。
日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルとヘンリー・ギャレットの両外国人、水谷実雄や高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。
2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。
このシーズンも快進撃を続け、3度目のリーグ制覇を達成。勢いそのままに、近鉄バファローズを下し日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
山本、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。
阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝[7]打線のスタメンに、外人助っ人はひとりもいないという「純血打線」として人気を博す。またこの年、長年チームの4番を務めてきた山本浩二が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。
この年限りで引退した衣笠が、2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新する。衣笠は引退時までに2215まで記録を伸ばした。
山本浩二が監督に就任する。
4月に戦線を離脱し闘病中の炎のストッパー・津田への熱い思いから、山本以下選手一丸、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。日本シリーズでは、西武ライオンズと対戦。先に王手をかけた広島であったが、西武の底力の前に力尽き最終的には3勝4敗で敗退。この年以降、チームは優勝から遠ざかることとなる。
シーズンを勝ち越し、この年優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位[8]となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。
若手の佐々岡や北別府ら投手陣が崩壊し、最下位に転落。山本は責任を取って監督を辞任した。
この年の7月20日、津田恒美が脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。
三村敏之が監督に就任。一時期は10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。
シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、3位に。この年以降、現在に至るまでチームは深刻な投手不足に悩まされるようになる。
大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得。この年に3位となったのを最後に、現在に至るまでチームはAクラス入りさえできないようになる。
投打の主力選手だった大野豊、正田耕三の引退も重なり、5位に終わる。シーズン後に三村が監督を退任する。
達川晃豊が監督に就任。伝統の猛練習でチームの底上げを図るも、99年・00年とも5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。
再び山本浩二が監督として指揮を執るも、凡ミスの多い試合内容[9]で1度もAクラスを経験しないまま、2005年終了後に成績不振の責任を取り辞任。 2005年9月、ライブドア社長(当時)の堀江貴文によるカープ球団買収報道が流れ、10月中旬にライブドアが本格的に球団買収調査を開始したと報道された。
ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を計った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。
開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。
キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割をキープしていたが、交流戦で最下位に沈んだことで優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。しかし、長年阪神に負け越していたが、14勝9敗1引き分けと阪神に勝ち越し、長年の雪辱を果たした。
課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび炎上して安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言し退団した。
チームの投打の大黒柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。新井の人的補償として赤松真人を獲得し、他にも新人や新外国人選手を含め14人もの新入団選手を獲得した。
苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、vs巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。
延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。
この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も「マツダ Zoom-Zoomスタジアム広島」に変更した。
オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。
シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く(特に前半戦は打率.220~.230台と極度の貧打に悩まされた)、低迷状態に陥り、1950年以来59年ぶりとなるvs中日戦11連敗という球団史上最悪の記録を更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定[10]。
また、この年に1500本安打を達成した緒方孝市が、23年間の現役生活に幕を閉じた。緒方の引退により、現役選手の中でのカープ優勝経験者は、前田智徳のみとなってしまった。
広島OBで野球評論家の野村謙二郎が監督に就任。背番号は現役時代の「7」を2つ並べて、「77」に決定。
但し近年は交流戦の影響や新本拠地の開場もあってか、地方試合は年々減少傾向にある(2003年頃までは地方での試合が大体10~13試合程度あったものの、2010年度は僅か4試合の予定となっている)。詳細は広島東洋カープ主催試合の地方球場一覧を参照の事。
※太字は優勝達成監督
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
カープは当初、広島県、広島市、呉市、中国新聞、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。
また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。
1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。
1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、広島は横浜やダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(FA残留)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。さらに、年俸の高騰を招くため、2009年オフに日本ハムからFA宣言した藤井秀悟(結局巨人に入団)の獲得に動くまで[13]他球団のFA選手の獲得にも動かなかった[14]。更には、2008年オフに東京ヤクルトスワローズと東北楽天イーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島は消滅した近鉄を含むセ・パ13球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となった。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められなかった。
そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹投手がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。球団にとって彼の流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかしこの年の黒田はFA権を行使せずに残留した。また翌2007年に新井貴浩内野手がFA宣言した際も、球団はFA残留を認める方向だったが、結局阪神に移籍した。2008年末、東出輝裕内野手もFA権を獲得したが、宣言せずに残留した。2008年の東出は、シーズン打率3割1分を残すなど10年間のキャリアで自己最高の成績を挙げただけではなく、内野のリーダーとしても高く評価され、FA権を行使した場合でも残留を認める方向だった。2009年オフ、前年オフにFA権を行使した高橋建がメジャー再挑戦を断念し、広島カープに再入団した。高橋建は米大リーグ・メッツを戦力外のためFA申請をしたFA選手ではないものの、FA権を行使して広島を退団した選手で初めての再契約となった。
広島カープのエースと呼ばれた選手の中に、長谷川良平、大田垣(備前)喜夫、安仁屋宗八、外木場義郎、北別府学、佐々岡真司ら3文字の名字の選手が多い。
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。
1956年5月20日に広島総合球場で開催されたvs巨人戦で、ファンが3連敗に怒りを露わにして、物を巨人選手が引き揚げ中のグラウンドに投げ込んだ。その際、巨人投手の木戸美摸にビール瓶が直撃し負傷する。未必の故意による傷害行為であり、ファンによる水原監督への暴行もあって、巨人側が「犯人を出さない以上、二度と広島でゲームはしない」と強硬な態度を示した。その後、カープのためとファンの男性2人が何もしていないにもかかわらず「替え玉」として出頭(後に証拠不十分で不起訴処分)し、事態を収拾した。
詳細は木戸美摸投手負傷事件を参照のこと。
1966年6月5日、対阪神戦で山本一義が死球を受けたためファンが騒いだが、一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の負傷。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
完全試合を合計3度献上しており、これは日本プロ野球最多の数字である。その一方で外木場義郎が1968年9月14日に完全試合を達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。
ノーヒットノーランに関しても球団創設以来9度も献上しており、この献上回数もまた日本プロ野球チームで最多である。2004年10月には阪神の井川慶にノーヒットノーランを許した直後の横浜戦でも9回裏2死までノーヒットであと一人で吉見祐治投手にまでノーヒットノーランを許してしまう事態となり、あわや日本プロ野球初となる1シーズン2度ノーヒットノーランを相手球団の先発投手に許すという不名誉な記録を作るところであったが、そこから福地寿樹(現東京ヤクルトスワローズ)が二塁打を放ち、ぎりぎりの所でこの記録から免れた(ちなみに、この試合での広島の安打はこの福地の二塁打1本のみであり、福地自身のシーズン初安打でもあった)。
1964年入団の安仁屋宗八投手は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっている。
1967年10月12日、カープは日程調整の関係でデーゲーム(13時開始)に巨人戦(後楽園球場)、続いてナイター(19時開始)でサンケイ戦(神宮球場)を行った。同じ日に同じチームが違う対戦チーム・違う球場でのダブルヘッダーを行ったのは、1952年に現在のフランチャイズ制が確立されて以降これが唯一である。
初めてAクラス入りした1968年、カープは阪神との岡山・姫路での開幕シリーズに連勝。7連敗で一時3位に転落したものの6月12日には首位に返り咲き、7月6日まで守った。この年はピンキーとキラーズのデビュー曲「恋の季節」がヒットしたこともあり、曲のタイトルとカープ(=鯉)を引っ掛けた「鯉の季節」という言葉が新聞紙上を飾った。最近でも「鯉の季節」という言葉自体は使われるが、「鯉のぼりの時期までのカープは勢いがあるが、それを過ぎれば転落していく」という、からかい半分またはファン自らが自嘲的な意味で使うことが多い。
日本のプロ野球において、ノーヒットノーランの最多記録保持者は沢村栄治(巨人軍)と当チームの外木場義郎の2名。回数は3回である。
外木場は1965年10月2日、デビュー2戦目の阪神戦でプロ入り初勝利・初完封をノーヒットノーランで飾る快挙を達成すると、1968年9月14日には大洋を相手に2度目のそれを完全試合(史上10人目、カープとしては初)で決め、日本タイの3回目のノーヒッターは1972年4月29日、沢村が所属した巨人との対戦で飾った。
詳細は「江夏の21球」を参照
1979年、近鉄バファローズとの日本シリーズ第7戦で、江夏豊がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け広島を日本一に導く。このシーズンで自身初、そしてリリーフ投手で初のMVPに輝く。なお、後にこの詳細はNHK特集に取り上げられた。
カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手(75:阪急 86,91:西武)には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。
なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以後日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。
1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦の清原和博選手の打席後、及び2006年8月2日のヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。1982年のケースは岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、他2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中でコールドゲームとなった。
1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。
1988年6月26日、盛岡での横浜大洋ホエールズ戦でのこと。大洋の先発投手を右の斉藤明夫と読み切った監督の阿南準郎は、以下のオーダーを組んだ。
| 守備 | 選手 |
|---|---|
| 二 | 正田耕三 |
| 右 | 山崎隆造 |
| 遊 | 高橋慶彦 |
| 一 | 小早川毅彦 |
| 中 | 長嶋清幸 |
| 左 | 松林和雄 |
| 三 | 高信二 |
| 捕 | 達川光男 |
| 投 | 大野豊 |
小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林はスイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。
試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。
1984年2月28日、鹿児島でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような、山崎・高橋・川口のスイッチヒッター3人以外は左打者だけのオーダーを組んでいる。
| 守備 | 選手 |
|---|---|
| 二 | 山崎隆造 |
| 中 | 長嶋清幸 |
| 遊 | 高橋慶彦 |
| 一 | 長内孝 |
| 三 | 小早川毅彦 |
| 左 | 西田真二 |
| 右 | 定岡徹久 |
| 捕 | 山中潔 |
| 投 | 川口和久 |
アメリカ合衆国のメジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
1990年5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったといわれるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者だった。この日、野球中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。なお、この男は2001年頃のテレビ番組『あの人は今!?』で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。2007年4月5日(木)の対横浜戦におけるRCCインターネットラジオ内で、解説の安仁屋宗八は広島市民球場開設50年の想い出を聞かれ一番初めにこの事件のことを口にした。また後にこのクモ男と居酒屋で飲んでいたことも語った。
なお、2009年5月16日の対巨人8回戦(マツダスタジアム)でも、作務衣姿の男が5回裏終了後のグラウンド整備中に三塁側ベンチ横のバックネットによじ上る事件が起きた。男は5mほど登って観客に手を振ったあと球場係員に注意されて自席に戻ったため不問とされた。試合にも影響はなかったが、スポーツ紙はこれを「19年ぶりにクモ男が出現」と報じた[15][16]。
1998年5月27日開催の対横浜戦(広島市民球場)試合終了後、広島が敗戦したことに怒り、広島のファンが右翼席のごみに放火した。火はすぐに消し止められ、けが人はなかった。
1998年から2009年まで12年連続Bクラスだが、2001年は勝率では3位ながら、順位では4位となった。これはセ・リーグの順位決定方式が従来の「勝率優先」から「勝利数優先」となった為で、広島はシーズンを勝率3位の68勝65敗7分(.511)で終えたが、横浜の69勝67敗4分(.507)に勝利数で下回り、4位になってしまった。シーズン中は試合消化の早いチームが上位になりやすく、また引き分けの価値が負けに等しくなるなど不評で、翌年からの従来通り「勝率優先」に戻された。
2007年4月12日開催の対巨人戦(広島市民球場)2回表の巨人の攻撃中、突然3塁ベンチの水道管が破裂し、10分間試合が中断した。巨人の門倉健投手が最も近くにいたが、少し濡れた程度だったらしい。
2005年7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。
カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。
ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの[17]ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗したベースボール・モンキーとしてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。
2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなし、多くのプロ野球ファンを魅了した。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。
本拠地での開幕試合は広島市長が始球式を行うこともあり、有名人の起用があまり無く、2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。
| 月日 | 対戦相手 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 4月6日 | 阪 神 | 白石勝巳 | ※1 |
| 4月7日 | 阪 神 | 長谷川良平 | |
| 4月8日 | 阪 神 | 長谷部稔 | |
| 4月9日 | ヤクルト | 渡辺信義 | |
| 4月11日 | ヤクルト | 松山昇 | ※2 |
| 4月20日 | 巨 人 | 川本徳三 | |
| 4月21日 | 巨 人 | 備前喜夫 | |
| 4月23日 | 中 日 | 原田信吉 | |
| 4月24日 | 中 日 | 緋本祥男 | |
| 4月25日 | 中 日 | 平山智 | |
| 5月8日 | 中 日 | 古葉竹識 | |
| 5月9日 | 中 日 | 鵜狩道夫 | |
| 5月11日 | 巨 人 | 山本一義 | |
| 5月12日 | 巨 人 | 安仁屋宗八 | |
| 5月28日 | 横 浜 | 衣笠祥雄 | |
| 5月29日 | 横 浜 | 大石弥太郎 | |
| 5月30日 | 横 浜 | 三村敏之 | |
| 6月11日 | ヤクルト | 河合昭時 | |
| 6月12日 | ヤクルト | 高橋里志 | |
| 6月13日 | ヤクルト | 久保俊巳 | |
| 6月15日 | 阪 神 | 水沼四郎 | |
| 6月16日 | 阪 神 | 深沢修一 | |
| 6月25日 | 巨 人 | 木下富雄 | |
| 6月27日 | 巨 人 | 山本浩二 | ※3 |
| 7月6日 | 横 浜 | 北別府学 | ※4 |
| 7月7日 | 横 浜 | 小林聖始 | |
| 7月8日 | 横 浜 | 今井譲二 | |
| 7月30日 | 巨 人 | 金石昭人 | |
| 7月31日 | 巨 人 | 川口和久 | |
| 8月1日 | 巨 人 | 高橋慶彦 | |
| 8月4日 | 横 浜 | 渡辺弘基 | |
| 8月5日 | 横 浜 | 宮本幸信 | |
| 8月13日 | 中 日 | 及川美喜男 | |
| 8月14日 | 中 日 | 高木宣宏 | |
| 8月15日 | 中 日 | 福島久晃 | |
| 8月19日 | ヤクルト | 新美敏 | ※5 |
| 8月25日 | 阪 神 | 小川達明 | |
| 8月27日 | 巨 人 | 高橋直樹 | |
| 8月28日 | 巨 人 | 定岡徹久 | |
| 8月29日 | 巨 人 | 中利夫 | |
| 9月4日 | 中 日 | 野村謙二郎 | |
| 9月5日 | 中 日 | 江藤智 | |
| 9月14日 | ヤクルト | 前田智徳 | |
| 9月15日 | ヤクルト | 浅井樹 | |
| 9月25日 | 横 浜 | 金本知憲 | |
| 9月26日 | 横 浜 | 福地寿樹 | |
| 9月28日 | 阪 神 | 玉木朋孝 | |
| 9月29日 | 阪 神 | 木村拓也 | |
| 9月30日 | 阪 神 | 嶋重宣 | |
| 10月1日 | 阪 神 | 江夏豊 | ※6 |
| 10月3日 | ヤクルト | 朝山東洋 | |
| 10月4日 | ヤクルト | 野々垣武志 | |
| 10月5日 | 横 浜 | 新井貴浩 | |
| 10月6日 | 横 浜 | 東出輝裕 | |
| 10月11日 | 巨 人 | 緒方孝市 |
※1 実際の始球式は秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。
※2 前日が雨天中止のため長持栄吉と務める。
※3 前日が雨天中止のため金城基泰と務める。
※4 来日したゲイル・ホプキンスと務める。
※5 前日が雨天中止のため杉本正志と務める。
※6 8月16日が雨天中止となったため。
広島は、現在のプロ野球の応援スタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。
1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。
ホームで9回裏には、「燃える赤ヘルぼくらのカープ」が流れる。
広島球団は新球場開場を記念して、今年度より球場来場者100万人達成ごとに社会福祉団体に対し、福祉車両(マツダ車)を贈呈するフィランソピー活動を展開している。
また国庫に対して公益寄付を行ったことで、2009年9月30日付で日本政府より広島球団に対して褒状が授けられている(官報 平成21年10月7日付告示)。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||
|---|---|---|
| 日本野球機構(日本プロフェッショナル野球組織) | ||
| セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |
| 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ | 北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス | |
| イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ | |
| 北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | オリックス・バファローズ | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス | |
| 日本選手権シリーズ | オールスターゲーム | クライマックスシリーズ |
||
| 独立リーグ / OBリーグ | ||
| 四国・九州アイランドリーグ | ベースボール・チャレンジ・リーグ | 関西独立リーグ | プロ野球マスターズリーグ | ||
| かつて存在したリーグ | ||
| 日本野球連盟(1936-1949) | 国民野球連盟(1947-1948) | 日本女子野球連盟(1950-1951) | グローバルリーグ(1969) | ||
| その他関連組織 | ||
| 日本プロ野球選手会 | 日本プロ野球名球会 | 日本プロ野球OBクラブ | ||
|
|||||||||||
|
|||||||||||||||||
![]() 06:22 | 【10カープPV】広島東洋カープ【開幕版】 |
再生回数:10,936回評価: 提供:You Tube | |
![]() |
![]() 05:25 | 広島東洋カープ2008年度pv「ラストイヤー」 |
再生回数:95,456回評価: 提供:You Tube | |
![]() |
![]() 08:38 | 09年09月10日広島東洋カープ 9回攻撃 |
再生回数:26,006回評価: 提供:You Tube | |
![]() |
![]() 06:08 | 広島東洋カープ2009年度開幕PV「ニューイヤー」 |
再生回数:25,400回評価: 提供:You Tube | |
![]() |
![]() 01:47 | 090930 広島東洋カープ ルイス⇒フィリップス 負傷 |
再生回数:14,119回評価: 提供:You Tube | |
![]() |