| 文化大革命 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 無產階級文化大革命 |
| 簡体字: | 无产阶级文化大革命 |
| 拼音: | Wúchănjiējí Wénhuàdàgémìng |
| 発音: | ウーチャンジエージー ウェンフアダーグーミン |
| 英文: | Cultural Revolution |
文化大革命(ぶんかだいかくめい、無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう)は、中華人民共和国で1960年代後半から1970年代前半まで続いた、封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動。実質的には、中国共産党指導部内における修正主義の伸長に危機感を抱いた毛沢東らによる大規模な権力闘争としてとらえられることが多い。略称は文革(ぶんかく)。
政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動のはずであったが、実際には全国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され、多数の犠牲者を出したほか、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらす惨事となった。
目次 |
| 中華人民共和国 |
|---|
| 中華人民共和国の歴史 |
| 組織集団 |
| 中国共産党 · 中国人民解放軍 |
| 主な出来事 |
| 抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立 大躍進政策 文化大革命 · 林彪事件 四五天安門事件 改革開放 六四天安門事件 |
| 人物 |
| 毛沢東 · 周恩来 · 朱徳 劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平 林彪· 江青· 胡耀邦 趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬 朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝 |
| 理念 |
| マルクス・レーニン主義 毛沢東思想 · 鄧小平理論 4つの基本原則 · 3つの代表 |
| 統治機構 |
| 全国人民代表大会 中華人民共和国国務院 中央軍事委員会 |
| 地域 |
| 中国 · 華北 · 東北 華東 · 華中 · 華南 西南 · 西北 中華人民共和国の行政区分 |
文化大革命のきっかけとなったのは毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目的として林彪に与えた指示であり、これに基づいて林彪が主導して開始されたとされている。その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、林彪による毛沢東暗殺未遂事件が発生(林彪事件)。林彪は国外逃亡を試みて事故死するが、彼の死後も「四人組」を中心として、毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指し、文化大革命が進められた。しかしながら、実質的には中国共産党指導部内の大規模な権力闘争であり、これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展していった。
文化大革命においては、まず共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。その後、弾圧の対象は中国共産党員にもおよび、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。
文化大革命が起こる要因ともなった大躍進政策もあわせると、行方不明者を含めた虐殺数は、推計で約3000万人-約7000万人[1][2]といわれ、これらの政策によって中華人民共和国の経済発展は30年遅れたと言われている。なお現代中国政治を専門とする政治学者の中嶋嶺雄は中華人民共和国が建国後、起こした人民への弾圧・迫害・虐殺行為など犠牲者総数は2億人前後に及ぶと推計している[3]。
1966年から10年にわたって吹き荒れた中華人民共和国の政治混乱の背景には、
など、さまざまな原因が考えられる。
文化大革命(1966-1976年)は大きく3段階に分けられる。第1段階は1966年5月の紅衛兵結成から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第2段階は1973年8月の第10回党大会における林彪事件の総括まで。第3段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。
期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。
中華人民共和国での思想統制は1949年の建国前後にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。
1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。
1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。
1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議(中共8期11中全会)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。
8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らにより「中央文革小組」が結成されて取って代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。
その報告には、「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない」
と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。
毛沢東はのちに「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」とのアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーの問いに対し、「1965年12月であった」と答えている。
毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、実権派に対して毛沢東自身が仕掛けた奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた「五人組」であったとする見方もある。
原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
しかし次第に毛沢東思想を権威として暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり、1968年以後、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送が開始された(上山下郷運動、一般的には下放と呼ばれる)。
紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしている。
「実権派(「走資派」とも呼ばれた)」と目された鄧小平や劉少奇などの同調者に対しては、紅衛兵らによって徹底的な中傷キャンペーンが行われた。
批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。実権派とされた者は三角帽子をかぶらされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉晗、儲安平などは自ら命を断った。
実権派(走資派)らを打倒するために文革派(造反派)らによって全国各地に「革命委員会」が成立した。これにより地方の省、自治区、市などの地方機関や地方の党機関から革命委員会に権力が移譲されていったが、上海市や武漢市など一部の地方では実権派と文革派との間で奪権闘争と呼ばれる衝突事件も発生した。
文化大革命中、各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
内モンゴル自治区においても権力闘争に起因し多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起こったほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮した。
毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって、多くの人々が暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する明確な説明あるいは謝罪を行っていない(1996年に中国中央電視台で文革を反省する特別番組を放送している)。
詳細は「林彪事件」を参照
林彪は1966年の8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、単独の副主席となった。さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。
1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
1971年9月に、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に林彪とその一派が毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。1971年9月13日に、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、人民解放軍に地対空ミサイルで撃墜された説がある。
なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪され、批林批孔運動が起こされる。
詳細は「批林批孔運動」を参照
1973年8月から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とする。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。
この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者に止まった。武則天が善人の中に入っているのは江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。
司馬遼太郎が行った現地リポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。
1975年民衆に根強い人気のあった水滸伝について、当初の首領である晁蓋を毛沢東は自らと重ね合わせ、晁盖が途中で死亡し、後を継いだ宋江が朝廷に投降したストーリーを批判した。さらに、四人組は鄧小平を宋江に比定し、「水滸伝批判」を鄧小平攻撃に用いた。
ソ連等、国交がある国の多くとも関係が断絶し、外交使節団の交換など交流があった国はアルバニアなど数カ国に過ぎず、10年以上の実質的な鎖国状態を招いたため、中華人民共和国の文化や経済の近代化は大きく遅れることになった。
このような中で、紅衛兵が長年の盟友的存在である北朝鮮の金日成主席を「修正主義者」と批判し、中朝関係が冷え込んだことがあった。なお、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配下で、(時期的には中国の内政では文革の終結時期以降にも及ぶが)自国民の虐殺を行った当時のカンボジア(民主カンボジア)は、文革中から中華人民共和国の親密な友好勢力であった。
また、このような鎖国ともいえる状況下にあったために、諸外国、特に西側諸国における文革に対する報道や評価は混乱を極め、その中で朝日新聞の中国報道問題や、日本の一部の左派文化人のような誤報、誤評価も相次いだ。
中国共産党と日本共産党との関係にも亀裂が生じた。毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出路線に基づく意見を述べた(無論「意見を述べた」だけではなく、この毛沢東の号令を合図に中国共産党と中国政府機関を動員した対日干渉が始まった。日中貿易、北京放送、「日本の真の共産主義者」への国家機関からの財政援助など)。
この直接の影響の下、日本共産党内から日本共産党路線に反対し、文革を賛美し、日本での文革引き写しの暴力革命持ち込みを掲げた分派が生まれ、発覚と同時に党から除名されていった。その最初のものが、山口県委員会がほぼ丸ごと移行した日本共産党 (左派)である(”県委員”機関クラスの知己仲間内のことであり、同県の党組織は即座に再建されている)。
日本共産党は「内政干渉だ」として関係を断絶し激しい論争となった。その後ずっと中国共産党側の対日内政干渉態度への自己反省がないことで関係は断絶していた。1998年に、日本共産党と中国共産党は「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関係を修復した。
1970年代に入ると、内戦状態にともなう経済活動の停滞によって国内の疲弊はピークに達し、それに合わせるかのように騒乱は次第に沈静化して行った。
そのような状況下で、1971年には従来中華民国の中国国民党政府が保有していた国際連合における「中国の代表権」を奪取(国際連合総会決議2758)、翌1972年にはアメリカのリチャード・ニクソン大統領が訪中し毛沢東と会談を行ったほか、日本の田中角栄首相も中華人民共和国を訪問、第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれて日本との間で国交が樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も次第に緩和されていった。
その後1976年には、文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来、この混乱の首謀者であった毛沢東が相次いで死去、新しく首相となった華国鋒は、葉剣英、李先念、汪東興等の後押しを受け同年10月四人組を逮捕した。
翌1977年7月失脚していた鄧小平が復活し、同年8月、中国共産党は、1966年以来11年にわたった文革の終結を宣言した(ただし、左派勢力に配慮し「第一次文化大革命を勝利のうちに終結した」と表現し、「第二次文化大革命」が将来ありうるような表現とした。)。1981年には四人組と林彪グループに対し、執行猶予付きの死刑から懲役刑の判決が下された。
文化大革命が開始された当初は、日本には実態がほとんど伝わっていなかった。だが、1966年4月14日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上で郭沫若が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と過酷なまでの自己批判をさせられたことが報じられると、川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫は、連名で抗議声明を発表した。
声明において、
「われわれは、左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである・・・学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」
– 「参考作品1」(共同執筆)『三島由紀夫全集』35巻P635(新潮社『三島由紀夫決定版全集36巻』P477)
と述べられ、権力の言論への介入を厳しく批判した。
三島の友人の劇作家・評論家の福田恒存も『郭沫若の心中を想ふ』(文藝春秋『福田恒存全集第6巻』に所収)でその言動を「道徳的退廃」として批判したが郭自身が北京で行われた文芸会議で「安全地帯にいる者のお気楽な批判だ」と反論している。
一方、当時は海外メディアが殆ど閉め出された中、朝日新聞などのごく一部の「親中派」と呼ばれるメディアは中華人民共和国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載した。
その後文化大革命の悲惨な実態が明るみに出ると、全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している。朝日新聞の中国報道問題[4] に詳しい。
批判者としては、自由主義の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義を唱えた中嶋嶺雄、西義之、辻村明らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。一方で、丸山昇、野沢豊らの日本共産党主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。
加々美光行は、批判者たちは自由主義と共産主義とで正反対の政治的ないし思想的立場にありながら、そこには毛沢東の政治的保身に発する権力闘争以上のものでないとして歴史的、思想的意義を認めない立場に立っている点で相似していることを指摘したうえで、「文化大革命は、実際に社会主義理念をめぐる対立に由来するものであり、それゆえ、表面的にはともなく深層においては現代中国を呪縛し続けているのであって、文化大革命が提起しながら未決着のまま残された課題は多く、今後、中国の社会主義の動向、とくに民主化をめぐってその課題は再燃するであろう」と予測している[5]。
なお、現在もまだ「文化大革命は世界同時革命の一貫であった」として肯定的に評価する少数論者として、新左翼内の文化的過激派であった平岡正明がいる[6]。
2009年11月に既存の予算の見直し作業を行った事業仕分けについて、民主党所属の仙谷由人行政刷新担当大臣は、事業仕分けを「文化大革命」と、賛辞として複数回発言した。
1981年6月に中共11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(歴史決議)」では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。
文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が1972年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験は行われず、青年は農村に下放されたため、専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。
なお、国内的には1981年に行われた「歴史決議」によって一定の終息をみた文革だが、国際、外交面における完全な終息にはなお数年ないし十数年の持続があったと思われる。
公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」と言う鄧小平の発言が党の見解だと受け止められている。一応教科書[7]にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述にとどまった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があったために、中華人民共和国内では一切報道されなかった。このように「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。
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