日本刀(にほんとう)は、日本固有の製造法によって作られた刀剣類の総称。刀剣類は、日本では古墳時代から作られていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった湾曲した刀のことを差す。寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。
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古来から武器としての役割と同時に美しい姿が象徴的な意味を持ち、美術品としても評価の高い物が多い。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また、武家政権を背景に「武士の魂」として精神文化の支柱として機能した。
その特徴は、"折り返し鍛錬法"で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることを以って最大の特徴である、と言える。
「日本刀」は元来、海外からみた場合の呼称[1]である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。
「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽修(おうようしゅう)の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。「日本刀歌」の本題は日本刀ではなく、中国では既に散逸してしまった書物が日本には存在しているということを嘆いた詩ではあるが、日本刀の美しさが、平安時代後期 - 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。
「日本刀」という名称が、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。その理由として、幕末以降、西欧に流出して評価が高まった日本の絵画が従来の西洋の絵画と区別して「日本画」と呼称されるようになったことに対応して、西洋の刀剣に対して日本刀という呼び方が定着した。それ以前は「打刀(うちがたな)」あるいは「太刀」という呼称が一般的であった。
日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因とあいまって変貌を繰り返してきた。
古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていた。例えば、埼玉県の稲荷山古墳や島根県の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。
7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていた。が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。
平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていないが、承平天慶の乱などが発生した平安時代中期以降(10世紀頃)従来の直刀に代わって騎乗時に扱い易い刀身に反りのある蕨手刀(彎曲刀)が使用されるようになった。これは長らく苦しめられた東北との紛争で俘囚が騎乗しながら使用していた蕨手刀が影響しているとみられる。また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。
平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。このころの日本刀は馬上決戦を中心に考えられた太刀が主体である。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めの大同年間(806年頃)とするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。
平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛治には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派の包平の大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。
鎌倉時代初期の日本刀は平安時代末期とあまりかわらない姿をしているが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく。後鳥羽上皇は御番鍛冶を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励した。中でも備前の刀工則宗が有名である。この時期には山城国の粟田口派、備前国の一文字派が新たに興った。
鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる。鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている。この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる。この時期の短刀の特徴としては、反りがないか(刺刀:さすが)、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる筍造:たけのこづくり)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある。この時期の有名な刀工として、山城の粟田口派の国友、則国、国吉、吉光、国安、同国来派(らいは)の国行、来国俊、二字国俊(銘字を「来国俊」でなく単に「国俊」と切る)、大和国の当麻派「国行」、手掻派「包永」、保昌派、千住院派、備前国の福岡一文字派、少し遅れて吉岡一文字派、長船派の光忠、その子長光、備中国の青江貞次一派が存在する。
また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近国綱、備前国から福岡一文字派の助真、国宗派の国宗、京伝、大和伝の流れを汲む新藤五国光などと言われている。特に新藤五国光は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には行光、国広がおり、行光の弟子に越中則重、岡崎五郎入道正宗が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。
山城・大和・備前・美濃・相模の5か国の作刀方式を「五箇伝」という。これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。五箇伝は桃山 - 江戸時代にかけて刀剣研磨・鑑定を生業とした本阿弥一族が整理した区分であり、大正 - 昭和初期にかけて本阿弥光遜が体系的に整理した。
鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。
古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道正宗は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、新藤五国光が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにも関わらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。
政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。
室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の変で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀、脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。
(室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってくる。なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。)
平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。そして、応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、足軽など農民兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これら「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、'備前の則光'、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、氏貞などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われる。
南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。
刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛治の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛治をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。
刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。 新刀の祖は梅忠明寿と言われており、その弟子に肥前国忠吉がいる。
備前鍛治が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛治は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。
江戸時代に入り、朱子学の発想に基づく風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛治は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。
武家文化の中心である江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛治の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛治も出現し、お互い技量を高めた。また、天草の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀による稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重、上総守兼重・大和守安定・法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。
商業の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の商業力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。 また、元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りともに優れている。
刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の反映に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。
黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、貨幣社会の台頭による商人の肥大化などにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。
新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が「新刀弁疑」という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大阪新刀の井上真改、津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤皇思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛治と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、たどり着くことはなかった。これは今日でも同様である。
正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた。
正秀一派が活躍する一方で、信州に鬼才が生まれる。はじめは大阪新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。彼こそ、江戸期を代表する刀工となった源清麿である。私生活に問題があり、長州に隠遁したり、鍛刀せずに大酒を飲み、当時の著名刀工固山宗次と飲み比べ合戦を行ったエピソードは有名である。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。
水戸勤皇派による天狗党事件、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と勤皇派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)3月28日に警察官・軍人以外は帯刀を禁止する廃刀令が出されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。
明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし廃刀令以後は新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、月山貞一、宮本包則の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。
一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍は将校准士官の軍装品として軍刀を採用した。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての日本刀の有効性が再確認され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。また昭和に入り国粋主義的気運が高まり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともにサーベルであった下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。
詳細は「軍刀」、「軍服 (大日本帝国陸軍)」、「軍服 (大日本帝国海軍)」をそれぞれ参照
満州事変以後、陸海軍の工廠、帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によってはとして従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあった。軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(初期や末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における戦場という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要がある。鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外である。これらは陸海軍の将校・士官(軍刀のみならず軍装品類は私物として自弁調達であった)には安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀(三十二年式軍刀、九五式軍刀など)として支給され大量に実戦投入され、第二次世界大戦敗戦まで使用された。なお先述の通り、将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀々身以外に旧来の日本刀々身(古刀から新作現代刀まで)も多く軍刀として使用されている。広義の意味で「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を意味する通称であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する。
詳細は「軍刀#刀身」を参照
本来の「戦いの武器としての日本刀(戦う日本刀)」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は完成された日本刀となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は皆無な物が多く(関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた物や)、今日では製造方法の上からも、狭義の意味での日本刀の範疇には含まれないことにはなっている。しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっている。
太平洋戦争(大東亜戦争)降伏後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。
一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。日本刀自体には登録が義務付けられており、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要がある。所持に関しては銃刀法による制限を受けるが、所有については許可などは必要なく、誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している所はある)。なお、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要である。
今日では日本刀は武器ではなく、居合・抜刀といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の立派な美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。現在では、本来の武器としでは無く、美術品としての価値が高いものである。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝、重要文化財、重要美術品に指定されている。日本刀独自の鍛錬により、さまざまな、刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品である。その美術品としての価値は、その特色をよく理解しなくてならない。日本刀の鑑賞の歴史は古く、千年以上の歴史がある。事実、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として、使われたものはあまりなく、日本刀の名品といわれるものは、千年以上の時を経ても健全な形で残っている。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。
「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるため、日本刀の原材料となる鋼の製法、選定、刀剣の鍛錬には、古来より多くの刀工が工夫している。今日においては、古くから伝わる卸鉄(おろしがね。鉄材を再還元して刀剣用に供する鋼を造ること)や自家製鉄した鋼を用いる刀工もおり、日本固有の伝統技術として継承されている。
現在、一般的に言われている日本刀の製法は幕末の水心子正秀の秘伝書をもって述べているに過ぎない。日本刀の製法ではなく、正しくは新々刀の製法となる。
現代刀工が主たる原材料としている、たたら吹きによる玉鋼を機軸に、製鉄、作刀の技術の概略を以下に記す。
刀工が行う一通りの作業が終わり、これからは研師により最終的な研ぎを行うが、室町時代以前は刀工自ら研磨も行っていたといわれる。日本刀研磨で、他の刃物砥ぎと大きく相異する点としては、刃物としての切れ味を前提としつつ、工芸品としての日本刀の美的要素を引き出すことを主眼としている点、刃部のみで無く、刀身全体に砥ぎを施すことなどがあげられる。鞘師によりその刀に見合った鞘を作成することになる。日本刀は刀工だけが造るものではなく、研師や鞘師、塗師、蒔絵師、金工師、白銀師などの職人によって初めて完成するものである[4]。それぞれの職人は、大きく以下の部分を担当する。
日本刀は、まず本体である刀身とその外装品である拵え(こしらえ)に分けられ、拵えは鞘(さや)、柄(つか)、鍔(鐔、つば)の各部に分けられる。部位および形状は右図を参照。
日本刀の多くは片刃であり、刃のない側は棟(むね)または峰(みね)、また刃と棟の間の膨らんだ部分を鎬(しのぎ)と呼ぶ。鎬地と棟の間には樋(ひ)と呼ばれる溝が両面にそれぞれ1本または2本掘られるものがある。重量軽減しながら強度を保つ工夫であるが、実際は鎬地の傷隠しのために後世になってから彫るものが圧倒的に多い。また、鎬を高く棟を卸した作り込みが大和伝の特徴(棟を盗むという)で、これも樋と同じ目的となっている。大和伝以外では、戦国期に長船與三左衛門祐定と和泉守兼定が棟を盗む造りの名人であり、実用刀として珍重された。
刀身のうち柄(つか)に収まる部分を茎(なかご)、茎を柄に固定する棒状のものを目釘、それを通す孔を目釘孔(めくぎあな)と呼ぶ。茎には鋼の平鑢(ひらやすり)を丁寧にかけ(鑢目の種類は後述)、刃区(はまち)、棟区(むねまち)を整える。茎棟には流儀によって丸棟(まるむね)、角棟(かくむね)がある。さらに茎の尻を鑢で仕上げ、最後に目釘孔を設け銘を切る。古来、茎の鑢がけは柄から抜けにくくするためとされたが、江戸時代においては美観と贋物防止が目的となる。
一般的に日本刀を鑑賞するときには、刃文と地鉄に注目することが多い。刃文を構成する匂い口の様子や刃中の働き、鍛錬して鍛えた地鉄中の働き、鉄色の冴えを見る。さらに深く鑑賞、もしくは鑑定する場合は、中茎を手に持ち垂直に立て、まず姿を見、作刀時代の検討をつける。続いて、各々の時代特色が刀身に現れているか鉄色、匂い口の雰囲気、そして特に切先である帽子の出来から観察し、鑑賞する。最後に中茎の具合を手のひらの感触、錆の具合、中茎孔の状態、鑢目、中茎尻、中茎棟の仕上げ状態、そして銘があれば銘を鏨切りの方向からも観察し、文字通り撫で回すように鑑賞する[5]。
鞘(さや)は、刀身に擦り傷が付かないように軟質な朴(ほお)の木を、加工後の反りを防ぐために10年以上寝かして使う。刀身を差し入れる方を「鯉口(こいくち)」、逆の側を「小尻」または「鐺(こじり)」と呼ぶ。鐺の端には鐺金具と呼ばれる保護具が付くことがある。指表(さしおもて=帯に差す時、外になる側)の腰あたりにある栗形(くりがた=角や金属製の部品)に下緒(さげお)を通して帯からの脱落を防止する。栗形の鐺よりに返り角(かえりづの)や逆角(さかづの)、折金(おりがね)と呼ばれる突起部品が付けられる場合もあり、刀身を抜く時に鞘ごと抜けないようにこの部分を帯に引っ掛ける。笄(こうがい)と呼ばれる整髪などに使う小さなへら状の装身具を格納するために、鞘の主に鯉口近くの指表に設けられた笄櫃(こうがいびつ)と呼ばれる溝が設けられるものがある[4]。
鞘は塗り加工などが行なわれて完成すると、内部の汚れは容易に除けなくなる。これを避けるために鞘の内部に別の小さな鞘を入れた「入子鞘(いりこざや)」と呼ばれるものがあり、2枚に分割可能な構造をしている。
親指を鍔にかけて鞘から少し押し出す所作を「鯉口を切る」という。
柄(つか)は茎(なかご)を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。多くは木製で、その上に鮫皮を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐を巻く。
柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘孔と呼ぶ。目釘には主に煤竹という燻上した肉厚の竹が用いられる。目釘には真竹が最適であり、100年以上寝かせたものが最適であると言われている。また、目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。さらに、柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。
日本刀は刀身と拵え(こしらえ=外装品)を別々に分けることができるが、ハバキや切羽(せっぱ=鍔に添える金具)などで鍔は刀身に固定されている。
詳細は「直刀」を参照
詳細は「小烏丸」を参照
詳細は「太刀#毛抜形太刀」を参照
詳細は「太刀」を参照
詳細は「大太刀」を参照
詳細は「小太刀」を参照
詳細は「打刀」を参照
詳細は「脇差」を参照
詳細は「短刀」を参照
詳細は「長巻」を参照
詳細は「薙刀」を参照
詳細は「槍」を参照
一般的に時代が降るにつれ、腰から先へ反りの中心が移動していく傾向になっている。
鑢目(やすりめ)は柄から刀身を抜けにくくするために施される。 国、時代、流派により使われる鑢目が違うため、日本刀の鑑定でよく見られる。
日本刀の地刃の働きは主に鋼を焼き入れした時に生じるマルテンサイトによって構成される。
沸と匂いの組み合わせによって以下の様々な働きが現象する。
日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」の材料工学においての強度と靭性の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。
日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。有名な逸話として、榊原健吉の同田貫一門の刀による「兜割り」がある。テレビの通販番組でも「刃物の製造に関しては世界一の技術を誇る日本」などの謳い文句が時に用いられる。ただし、この切れ味も最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす場合はともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業とされる。
日本刀のうち、江戸時代の打刀は、江戸幕府の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は大小を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなり、試し斬りが多々行われた[6]。刀剣は一般通念よりも軽く作られている。
以下は各地域発祥の刀剣との比較。なお、重量は全て抜き身の状態のもの。
以上は近代まで使われていた物である。日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではない。しかし、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。日本刀は、「断ち切る」ことに適した刀剣である。しかし、刀自体重量が軽いので切断する際手前にスライドさせて力の向きを切断物に対し直角からそらして加える必要がある。同じ理由により、「斬る」ために刀を砥ぐ際は、包丁のように、スライドさせる方向に砥ぎをかける(剣の扱いに似ている)。
以下テレビ番組での実験では、その性格上、センセーショナルに扱うために対照実験など科学的な比較検討が行われていない、信憑性の薄いものがほとんどである。
日中戦争(支那事変)中、日本軍将校2人が百人斬り競争を行ったという。将校の一方は自らの関の孫六について、56人の時点で刃こぼれが1つ、86人の時点で「まだ百人や二百人斬れるぞ」と言ったという(東京日日新聞1937年11月30日・同12月4日)。これについて「名誉毀損」として訴訟が起きており、「全くの虚偽であると認めることはできない」とされた高裁判決が確定している。
秦郁彦によると、刀工の成瀬関次は『戦ふ日本刀』(1935)で日本刀での47人斬り他複数の逸話や伝聞の信憑性を肯定的に述べている。秦によると、鵜野晋太郎という少尉が『ペンの陰謀』に、捕虜10人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を寄稿したという。山本七平は「自身の経験に照らして日本刀で斬れるのは高々3人である」としている(『私の中の日本軍』)。ただ、体験談としての文章として体をなしていない部分もあり信憑性には疑問が有る。
日本刀は元来、「断ち切る」ことに適した刀剣である。起源をさかのぼれば、古墳 - 奈良時代に、儀式用と実戦用とが区別され始めた時、「圭頭大刀(けいとうたち)」や「黒作大刀(くろづくりのたち)」は「断ち切る」専用だった。平安時代に「小烏」などが「切っ先諸刃作り」を採用して「突き刺す」ことにも適性を持っていたが、その後、太刀や打刀では、切っ先諸刃作りは排され、手首を利かせて「切る」ことに適するよう、湾曲している。一部の武芸者は、切先三寸が両刃となった刀を使用したが、これは例外である。
日本刀は、「武士の魂」、神器としての精神的、宗教的価値や美術的価値が重視される一方で、日本史上の戦場でそれほど活躍しなかったとする説がある[7](山本七平、鈴木眞哉など)。よく挙げられる根拠は以下のもの。なお、これらには日本刀に限らず刀剣一般に該当するものを含む。
これに対して、以下の根拠から反論がなされている[8]。
鈴木眞哉は、日本刀が普及していた理由は、首を切り落として首級をとるために必要不可欠な道具であったからだと結論づけている。しかし、実際に首を落とすために使われていたのは短刀や脇差であり、妥当性に欠ける。
武士は戦場外でも常時、本差と脇差を携帯していた。これは扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)でコストパフォーマンスにすぐれた護身用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。なお、辻斬りやあだ討ちなどにも日本刀は使われ、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。
合戦、人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況には相応の覚悟が必要となる。それに際してに日本刀の「武士の魂」、神器としての精神的、宗教的価値や美術的価値がある意味現実的な力として求められたとしても不思議ではない。戦乱の時代に作られた刀に所有者が信じる神仏の名や真言が彫り付けてある遺例が数多く存在することも当時の武士達の赤裸々な心情を窺わせて興味深い。
工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどのメタ情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知を実現しているためである。例えばヒトは、細かく厳密な定義により他人の表情を読み取っているのではないが、高度な「気持ちを察する」能力が備わっている。特に日本人にこの能力が高い、として「日本的な」ものづくりを工学システムとして捉える試みが近年萌芽してきている。