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桑田真澄(2007年)
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 大阪府八尾市 |
| 生年月日 | 1968年4月1日(41歳) |
| 身長 体重 |
174cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1985年 ドラフト1位 |
| 初出場 | NPB / 1986年5月25日 MLB / 2007年6月10日 |
| 最終出場 | 2007年8月14日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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桑田 真澄(くわた ますみ、男性、1968年4月1日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。
投手としては恵まれない体格ながら、理想的な投球フォームと、野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とするプロスポーツ選手も多い。高校球児の憧れの存在で、新人選手の目標とする選手に多く挙げられる。現在、ボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長も務めている。既婚者で息子が2人いる。
目次 |
最高153km/h[1]、常時140km/h台の直球とカーブを中心の投球をする、その他シュート、SFF系のフォークボール、スライダー、遅いストレート(チェンジアップではない)を投げる。特にそのカーブのキレと落差は驚異的であり、当時球界一と言われた。そのカーブには全盛期時に投げていたものと、メジャー時代(後期)に投げていたものと二種類あり、前者は、キレを中心とした比較的早いカーブ、後者は手元で縦に驚異的な落差を見せるカーブ。特に後者のカーブは強く、「レインボール」、「レインボーカーブ」、「すしボール」といろいろの名を持つ。
高校時代はエースとして活躍する一方、打者としても清原和博ともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評がある。その為色々なエピソードが生まれている。守備のうまさにも定評があり、幾度となくゴールデングラブ賞を獲得している。バントの名手川相昌弘をもってして「バントが一番決めにくい投手」と言わしめた。
小学3年生よりボーイズリーグの八尾フレンド所属。父親、桑田泰次の英才教育により、天才野球少年との誉れ高かった。
八尾市立大正中学校に入学し、野球部に所属。準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場。入学直後から主戦級投手として活躍。
中2時(1981年)には、優勝した守口市立八雲中学校(エースは後にPLで1年先輩になる清水哲)に惜敗。中3時(1982年)に優勝。
大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが上宮高校⇒南海⇒広島⇒巨人でプロ野球選手として活躍した西山秀二である。桑田、西山率いるこの年の大正中は投打とも群を抜く強さだったと言われ、大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、当時の怪物桑田を物語る逸話が掲載されている。準硬式の関係者の間では「大正中学に桑田あり」とその名を轟かせていた。
西山は、「南海の加藤伸一さんや広島の大野豊さんの球は凄かったけど、中学時代の桑田のコントロールには敵わなかった。桑田は中学時代、140km/h超のボールを寸分の狂いなくミットに目掛けて放っていた。プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田は中学時代、あんな暴投は決して放らなかった。中学生でも投げないような暴投を、何でプロのピッチャーが放るんですか?』と聞きましたよ。誰も打てんかった。高校野球で、一年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった。オレの中で一番エエ投手は桑田。」と語っている。
大正中学の教師が桑田のPL志望を認めなかったため(桑田は大正中学の野球部員とセットで上宮に進学しろと強要)、中3の3学期に八尾市立成法中学校に転校し、卒業。PL学園高校入学。高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。
PL入学直後は桑田自身の言によると、「4番は清原、エースは田口権一」という既定路線で、桑田以外の2人の長身の1年生が期待されており、172cmしかない桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだったそうである。1年生にも出場機会を与えるPLで桑田も入学直後から登板機会が何回かあったがメッタ打ちに遭い、半ば投手失格の烙印を押され、外野で球拾いをする。失意の中、ある日、母親が練習を見に来、「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と打ち明ける。甘い言葉を期待していた桑田の意に反し、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」というものだった。「もう辞めさせて下さい」と何時言いに行こうかと思いながら、汗を流す毎日が続いた。そんなある日、過去に報徳学園を甲子園に導き、社会人野球では神戸製鋼を日本一に導いた臨時投手コーチ、清水一夫がPL学園を訪れる。外野からの桑田の返球を見て、球の回転の良さに驚き、「あの、外野を守っている坊主は誰だ?なんであいつにピッチャーをやらせないんだ?僕がピッチャーに作ってあげる」と発言し、桑田を投手に戻す。桑田にだけ他の投手より過重なメニューで特訓を課す。1年生なのにメンバーに入ろうかという桑田に反感を持つ上級生は「ざまあみろ」と言っていたそうである。上級生は清水コーチの意図が何処にあるのかを知る由もなかった。
この年(1983年)のPLは投手陣が安定せず、大阪府予選では、5人の投手をベンチ入りさせていた。3年生の藤本耕、東森修、酒井徹、1年生の田口権一、そして桑田である。大阪府予選に於いて、さして強いとは思えないチーム相手に、よたよたとした試合展開でやっと勝つPLの有様を見かねた清水一夫が4回戦の大阪球場での吹田高校戦前に「もうあいつしかおらん。あいつでダメなら俺の首をかけてもいい!」と中村順司監督へ桑田先発を進言する。試合前まで弁当配りやバット運びをしていた背番号17(ベンチ入りは17人まで)、1年生桑田の公式戦先発デビューが急遽、決まる。試合前は同一チームにもかかわらず上級生は桑田を一人にし、「あぁもう俺の高校野球は終わった。どないしてくれるんや?」とか、「お前がおるのがあかんのや!」と桑田を苛めた。この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護、桑田は相手打線を散発二安打に抑え、完封する。結果で上級生を黙らせた桑田(そして清原)の快進撃がそこから始まる。
高校野球激戦区の大阪府から甲子園に出場可能な5回全てで出場。そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という空前絶後の記録を清原とともに打ち立てる。
1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。1回戦の所沢商業戦で夏の甲子園デビュー。2回戦の中津工業戦を三安打完封、初本塁打。水野雄仁を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「やまびこ打線」の池田高校を準決勝で7対0と完封。超高校級でドラフト1位間違いなし、それまで一度も甲子園で本塁打を打たれたことのない水野から甲子園で初めて本塁打を打った選手となる(自身、この大会2本目の本塁打。この池田戦の持つ意義は「KKコンビ#名を知らしめた池田戦」参照)。決勝では横浜商業を3対0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。決勝の試合後、「あと4回、甲子園に来て全部勝ちたい。」と発言し、記者連中を驚かせる。1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は東邦の坂本佳一、早稲田実業の荒木大輔のように過去にもあったが、いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったこととなる。また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験する。
1984年の2年生での春夏の甲子園はいずれも接戦で敗れ準優勝。1985年、3年生の春はベスト4、夏は決勝戦で宇部商を下し優勝。甲子園での通算勝利数は吉田正男に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位(20勝3敗)。なお、夏の甲子園の優勝投手はプロで大成しないと言われていたが、桑田がプロで173勝もしてしまったため、このジンクスも桑田によって破られた形となった。桑田は上に進んだ時の事を考え、ストレートとカーブのみで3年間通した。打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位の6本である。高校通算25本塁打。5回の大会の中で桑田・清原のいたPL学園を完璧に抑えた投手は、田口竜二(都城高→南海)、山口重幸(岩倉高→阪神)、渡辺智男(伊野商→NTT四国→西武)と、いずれもプロ入りしている。
1985年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、巨人との密約が囁かれる(KKドラフト事件)。桑田自身は密約を否定した上で当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いると弁明している。ドラフト当日のインタビューで王監督は「時期は言えないが、ずっと前から桑田一本で行こうと決めていた。」と、指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かした。桑田で行こうと決断したポイントとして、「状況に応じたピッチングができること」、桑田で印象に残るプレーとしては、「1985年春の選抜の天理戦でトリプルプレーを決めたこと」を挙げている。
1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。2年目の1987年7月8日、札幌円山球場での対広島戦で、自らの3ラン本塁打とタイムリーヒットでチームの全4得点をたたき出した上で、プロ初完封勝利を挙げる。この試合は桑田のワンマンショーと言われた。このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルに輝き、先発投手を賞する沢村賞に選ばれた。以降1992年まで6年連続2桁勝利を記録した。
1989年からは藤田元司独特の先発理論にもとづき斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。1990年には登板日漏洩疑惑が持ち上がった。桑田は疑惑の調査段階において金銭と高級腕時計の受領があったことを球団に報告し、後に虚偽報告をしたことを申し出た。これがプロ野球選手の統一契約書第17条(模範行為)に違反するとして、球団から謹慎1ヶ月と罰金1000万円の処分を受けた。疑惑内容については、事実ではないことが後に判明している。
1994年には、10.8決戦で、7回からリリーフ登板。3回を無失点に抑えて胴上げ投手となる(#10.8決戦)。
1995年6月15日、対阪神タイガース戦において、湯舟敏郎選手の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に、右肘側副靭帯断裂の重傷を負った。自身の左手首から健全な靭帯を移植する手術のため渡米。1995年残りシーズンと1996年を棒に振り、1997年4月6日、661日ぶりにカムバックを果たした[2]。カムバック時のマウンドに跪き、プレートに右肘をつけたシーンは有名で、この後復帰した投手やシーズン初登板の投手が同じ姿勢を取る姿が見られる。この試合では、バント飛球に対し迷わずダイブする桑田の姿が見られ、誰もがあの日の再来を予感し、凍りつく一幕もあった。復帰した同年は10勝、1998年には最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、手術前のようなボールのキレは見られず、以後、投手としての新たなスタイルを模索する中で、精彩を欠いていく。この間、先発、中継ぎ、抑え、敗戦処理とジャイアンツの起用方法も迷走を続けた。
この時期の桑田を落合博満は自著『プロフェッショナル』ISBN 4583036213(p.90~)でこう評している。
「10.8決戦」も参照
(特記ない限り、出典は『試練が人を磨く』(1995年5月 ISBN 978-4594017125)p.85~97)
10月5日のヤクルト戦に先発登板した時は、8回途中まで無安打に相手を抑え、チームの指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板していた。7日夜、宿舎で長嶋監督から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」といわれて、意欲満々で試合当日に臨んだという。
当日8日は、試合前の練習時に、桑田が巨人投手陣の鍵を握ると見たファンからの熱い声援を受けて、15分くらい涙が止まらなかったという。試合開始し、初回からブルペンに入っていたが、「体は、疲れでバリバリ」という状態であったという。
7回3点リードの状態から登板し、「(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった」と述べている状況であったが、最後の打者を大きなカーブで空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えてセーブポイントも挙げた。『ベースボールマガジン』2009年3月号は、「(最後の打者が三振の)直後の桑田のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」(p.72~73)と記述している。試合前に涙を流し続けていたので、試合終了後は特に涙は出なかったという。
2001年オフ、共に巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一が引退。自身も引退を決意するが、長嶋茂雄に代わって巨人監督に就任した原辰徳から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ、現役を続行。2002年、古武術を応用したトレーニング、投球フォームを取り入れ復活。4年ぶりの二桁勝利、15年ぶりの最優秀防御率のタイトル獲得でチーム日本一に貢献した。15年の期間を経ての主要同一タイトル獲得は投手としてプロ野球歴代1位の最長記録(打者では門田博光が打点王を1971年に獲得以来17年のブランクを経て1988年に獲得した例がある)。2003年以降は再び精彩を欠くようになり、2005年は登板がなかった1996年を除いて初めてシーズン0勝に終わってしまう。このためシーズン中盤頃から引退が囁かれるようになったが[3]、正念場の試合では先発として最低限の仕事を果たしたこと、若手の手本足りえる存在であることなどが考慮され2006年も現役続行が決まった。
2006年4月13日、東京ドームでの対広島東洋カープ戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げたが、この試合で走塁中に右足首を捻挫し、同27日の広島市民球場での対カープ戦では3回途中6失点KO。その2日後に登録抹消され、二軍で調整を続けた。桑田の準備は整っていたが、一軍へ声がかかることは一切なかった。一選手が一軍首脳陣の起用方法に意見する訳にもいかず、シーズン終盤で一切声がかからないことから、巨人軍は自分を戦力としては見ていないと判断、吉村禎章二軍監督に、首都圏での最終登板機会である9月24日、ジャイアンツ球場での二軍戦は自分に投げさせてくれるよう懇願。9月23日、球団のホームページにある自身のページ『LIFE IS ART』で今シーズンで退団を示唆する内容の執筆をした。『お別れ 友へ 今年は、たくさん話をするつもりだったけど、全くできなくて本当に申し訳ないね。2月に、人生の師、藤田さんが他界され、直ぐに祖母ともお別れをしなければいけなくなった。別れが多い1年かもしれないね。このページも、2000年から続けてきたけれど、今年でお別れになると思うし、何より、明日、ジャイアンツのユニホームでマウンドに立つのは、おそらく最後になるだろう。21年間、大きく育てていただいた、ジャイアンツに心より感謝している。明日は、短いイニングだけど、友への感謝の気持ちを胸に投げたいと思う。桑田真澄のたった一度の野球人生を、大切に、そして誠実に生きたい。長い間、ありがとう 18』 がそれである。球団が処遇をはっきりしてくれないので、お世話になったファンに巨人での最後の登板を知らせるには、これしか方法がなかった為である。巨人の処遇について、盟友、清原は『巨人軍の18番を守り続けてきた男に対してする処遇か?あまりにも寂しい。巨人の18番を守り続けるのがどれ程大変な事か。』とコメントしている。現役を引退するのか、他球団で現役を続行するのか、動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグに挑戦することを表明した。
巨人のユニフォームでの最後の日となったのが11月23日、東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」、イベントの最後に「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません。(略)…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶し、21年間在籍した巨人に別れを告げた。
2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表された。日本人でパイレーツと契約は、マイナーを含め第1号となった。
マイナー契約ながら、フロリダで行われたピッツバーグ・パイレーツの2007年の春季キャンプに招待選手として参加、キャンプ終盤まで途中のマイナー合流を命じられることはなく、開幕メジャー入りを目指していた。3月26日、トロント・ブルージェイズとのオープン戦で登板した際、センター前ヒットを打たれ三塁ベースカバーに入る際に球審と激突し、右足首の靭帯断裂という怪我に見舞われた。審判3人制だったために、球審は三塁での判定をするため三塁に向かって走っており、桑田と交錯することとなった。これにより、開幕メジャー入りがなくなった上に、当面は怪我からの回復・リハビリに努めることを余儀なくされた。この頃、桑田は、復帰の時期にはこだわっていないと話していた。
パイレーツは桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで、3Aの故障者リストに入れリハビリを後押した。フロリダでリハビリを続け、5月19日にフリー打撃、5月24日に練習試合での登板を経て、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流した。6月2日に3Aでアメリカでの公式戦初登板を果たした。
復帰してからのマイナーにおける投球はいずれも順調な回復ぶりを示すものとなり、ピッツバーグの中継ぎ陣が壊滅状態であったというチーム事情も手伝い、6月9日にメジャー昇格、6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たした。39歳70日でのメジャーデビューは日本人選手では史上1位(当時、現在は高橋建に次いで2位)、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ記録となった[4]。
昇格当初は敗戦処理などでの登板が続いたが、ジム・トレーシー監督から「大事な場面でストライクが取れる」と評価を受け、中継ぎとして重要な場面での登板を任される機会が出てきた。しかしながら、日本時代にも指摘されていた球威の衰えに加え、桑田最大の武器であるコントロールも精彩を欠き打ち込まれる場面が増え、19試合に登板し0勝1敗、防御率9.43と振るわず、1勝も上げないまま8月14日(日本時間では15日)にピッツバーグより戦力外通告を受けた。退団時は「何も悔いはない」「メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい」と清々しい表情で語るなど引退を示唆していたが、翌2008年1月8日、再びパイレーツとマイナー契約を結び、春季キャンプに招待選手として参加することを自身のブログで公表した。しかし3月26日、引退する意思を明らかにし帰国した。
現在は野球解説者(スポーツ報知専属評論家。随時TBS・J-SPO大リーグゲストコメンテイター)として活動しているが、行く行くは指導者になることを望んでいるとされる。2009年1月28日、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に合格した。
しかし、2010年1月17日、父・桑田泰次が火災で死亡した[5]。
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1986 | 巨人 | 15 | 12 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 261 | 61.1 | 64 | 13 | 17 | 1 | 1 | 57 | 2 | 0 | 36 | 35 | 5.14 | 1.32 |
| 1987 | 28 | 27 | 14 | 2 | 4 | 15 | 6 | 0 | -- | .714 | 823 | 207.2 | 177 | 16 | 43 | 4 | 5 | 151 | 1 | 0 | 59 | 50 | 2.17 | 1.06 | |
| 1988 | 27 | 27 | 5 | 1 | 0 | 10 | 11 | 0 | -- | .476 | 806 | 198.1 | 174 | 19 | 53 | 13 | 5 | 139 | 4 | 0 | 80 | 75 | 3.40 | 1.14 | |
| 1989 | 30 | 30 | 20 | 5 | 4 | 17 | 9 | 0 | -- | .654 | 995 | 249.0 | 214 | 18 | 54 | 3 | 9 | 155 | 6 | 1 | 77 | 72 | 2.60 | 1.08 | |
| 1990 | 23 | 22 | 17 | 2 | 2 | 14 | 7 | 0 | -- | .667 | 748 | 186.1 | 161 | 12 | 40 | 1 | 1 | 115 | 2 | 1 | 58 | 52 | 2.51 | 1.08 | |
| 1991 | 28 | 27 | 17 | 3 | 0 | 16 | 8 | 1 | -- | .667 | 934 | 227.2 | 192 | 17 | 58 | 4 | 5 | 175 | 8 | 0 | 89 | 80 | 3.16 | 1.10 | |
| 1992 | 29 | 29 | 11 | 3 | 0 | 10 | 14 | 0 | -- | .417 | 912 | 210.1 | 235 | 24 | 64 | 3 | 5 | 152 | 9 | 1 | 112 | 103 | 4.41 | 1.42 | |
| 1993 | 26 | 26 | 8 | 1 | 0 | 8 | 15 | 0 | -- | .348 | 745 | 178.0 | 162 | 15 | 61 | 6 | 6 | 158 | 5 | 0 | 85 | 79 | 3.99 | 1.25 | |
| 1994 | 28 | 27 | 10 | 1 | 3 | 14 | 11 | 1 | -- | .560 | 836 | 207.1 | 175 | 16 | 51 | 8 | 4 | 185 | 6 | 0 | 65 | 58 | 2.52 | 1.09 | |
| 1995 | 9 | 9 | 3 | 1 | 0 | 3 | 3 | 0 | -- | .500 | 265 | 65.1 | 53 | 2 | 18 | 1 | 2 | 61 | 2 | 0 | 22 | 18 | 2.48 | 1.09 | |
| 1997 | 26 | 26 | 0 | 0 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 580 | 141.0 | 127 | 15 | 37 | 1 | 5 | 104 | 1 | 0 | 68 | 59 | 3.77 | 1.16 | |
| 1998 | 27 | 27 | 7 | 1 | 0 | 16 | 5 | 0 | -- | .762 | 779 | 181.0 | 197 | 17 | 46 | 0 | 6 | 116 | 4 | 1 | 88 | 82 | 4.08 | 1.34 | |
| 1999 | 32 | 22 | 2 | 0 | 0 | 8 | 9 | 5 | -- | .471 | 608 | 141.2 | 137 | 17 | 57 | 2 | 4 | 100 | 6 | 1 | 69 | 64 | 4.07 | 1.37 | |
| 2000 | 30 | 10 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | 5 | -- | .385 | 385 | 86.0 | 103 | 6 | 28 | 5 | 3 | 49 | 0 | 1 | 43 | 43 | 4.50 | 1.52 | |
| 2001 | 16 | 8 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 2 | -- | .444 | 226 | 50.1 | 56 | 4 | 19 | 4 | 0 | 31 | 0 | 0 | 29 | 27 | 4.83 | 1.49 | |
| 2002 | 23 | 23 | 3 | 1 | 0 | 12 | 6 | 0 | -- | .667 | 640 | 158.1 | 138 | 13 | 38 | 2 | 3 | 108 | 3 | 0 | 51 | 39 | 2.22 | 1.11 | |
| 2003 | 14 | 13 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | -- | .625 | 314 | 71.1 | 92 | 13 | 16 | 1 | 3 | 46 | 1 | 1 | 48 | 47 | 5.93 | 1.51 | |
| 2004 | 16 | 16 | 0 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 357 | 79.1 | 100 | 16 | 28 | 1 | 4 | 39 | 4 | 0 | 58 | 57 | 6.47 | 1.61 | |
| 2005 | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | .000 | 238 | 49.2 | 65 | 7 | 23 | 2 | 5 | 34 | 4 | 0 | 43 | 40 | 7.25 | 1.77 | |
| 2006 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | .500 | 55 | 11.2 | 19 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 11 | 9 | 6.94 | 1.71 | |
| 2007 | PIT | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | .000 | 103 | 21.0 | 25 | 6 | 15 | 4 | 1 | 12 | 0 | 0 | 23 | 22 | 9.43 | 1.90 |
| NPB:20年 | 442 | 396 | 118 | 21 | 13 | 173 | 141 | 14 | 0 | .551 | 11507 | 2761.2 | 2641 | 264 | 752 | 62 | 76 | 1980 | 68 | 7 | 1191 | 1089 | 3.55 | 1.23 | |
| MLB:1年 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | .000 | 103 | 21.0 | 25 | 6 | 15 | 4 | 1 | 12 | 0 | 0 | 23 | 22 | 9.43 | 1.90 | |
| 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 刺 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 日本通算 | 478 | 890 | 75 | 192 | 34 | 5 | 7 | 257 | 79 | 0 | 0 | 110 | 8 | 42 | 0 | 0 | 265 | 12 | .216 |
| 日米通算 | 497 | 890 | 75 | 192 | 34 | 5 | 7 | 257 | 79 | 0 | 0 | 110 | 8 | 42 | 0 | 0 | 265 | 12 | .216 |
『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
p.74~77ほか
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