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凡例
源義経 |
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| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
| 生誕 | 平治元年(1159年) |
| 死没 | 文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31 |
| 改名 | 牛若、遮那王、義經、義行、義顕 |
| 別名 | 九郎、判官、廷尉、豫州(仮名) |
| 戒名 | 通山源公大居士 |
| 墓所 | 宮城県栗原市判官森(伝胴塚) 神奈川県藤沢市白旗神社 |
| 官位 | 従五位下、左衛門尉、検非違使、伊予守 |
| 氏族 | 清和源氏為義流(河内源氏) |
| 父母 | 父:源義朝、母:常盤御前 養父:一条長成 |
| 兄弟 | 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼 全成、義円、義経、坊門姫、女子 廊御方、能成、女子(常盤の娘) |
| 妻 | 正室:河越重頼の娘(郷御前) 愛妾:静御前、平時忠の娘(蕨姫) |
| 子 | 女児、男児、女子(源有綱室)? |
源 義経(みなもと の よしつね、-義經)は、平安時代末期の武将である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
目次 |
義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』[1]や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。
清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死する。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若、乙若とともに逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる[2]。
後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は7歳の時鞍馬寺(京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った[3]。
やがて遮那王は僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い[4]。『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
詳細は「治承・寿永の乱」を参照
治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信・佐藤忠信兄弟等およそ数十騎[5]が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。
寿永2年(1183年)7月、木曾義仲が平氏を都落ちに追い込み入京する。後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し[6]、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して、後白河の怒りを買う[6]。そして後白河が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、弟の義経と中原親能を代官として都へ送った[7]。『玉葉』閏10月17日条には「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」とあるが、これが貴族の日記における義経の初見である。
義経と親能は11月に近江に達したが、その軍勢は500~600騎に過ぎず入京は困難だった[8]。そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河を幽閉する。京都の情勢は後白河の下北面・大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた[9]。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。
この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった[10]。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。
一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、義経は国司にはならなかった[11]。義経はその後、平氏追討の為に西国に出陣することが予定されていたが8月6日、三日平氏の乱が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる[12]。8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。同時期、義経は三日平氏の乱の後処理に追われている。9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。
一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河に西国出陣を申し出てその許可を得た[13]。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした[14]。宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した鏡璽を奉じて4月24日京都に凱旋する。
平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。
元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状[15]が頼朝に届いた。
一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた[16]。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状である。
義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事によるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった[17]。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自殺に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。
そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集める事は、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった[18]。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平家の捕虜である平時忠の娘を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。
結局義経は鎌倉へ入る事を許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った[19]。このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。
10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、10月18日に頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。11月7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解却見任。一方11月25日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた(文治の勅許)。
義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族、寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。そうした中、玉葉5月10日条によれば、諱を義経から義行に改名させられ、玉葉11月24日条では、さらに、義顕と改名させられた。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。
京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。
藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。
しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。
義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。
伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である奥州市衣川区の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。
義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、父義朝の九男にあたる。『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとするが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。
源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。
妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身のために差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜に遺棄された男児が確認される。
他には源有綱が義経の婿と称している事から、有綱の妻を義経の娘とする説もある[20]。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州衣川で誅されたと記されており、『吾妻鏡』文治3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とある事から、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっている事から、男児の存在についての真偽は不明である[21]。
死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。
義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。義経肖像としてよく用いられる中尊寺所蔵の画像は弁慶と対になっており、『義経記』で藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものであるが、これは戦国時代、もしくは江戸時代の作とされ、本人の実際の姿を描いたものではない。
身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かな事は不明である[22]。
義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の武士・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである[23]。また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。
『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で平家物語をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている[24]。
江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。
※斜体は物語のみに見られる人物。
優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき[25])というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。
義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。
また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。
義経の戦術は奇襲攻撃が多く、アイヌの人々の狩りのやり方によく似ていた。
義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
これに基づき、北海道の本別町では義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。現在では土砂崩れなどの危険もあり、弁慶洞については直接進入するのは難しいため、地上から見上げる形で観察することが出来る。
詳細は「義経=ジンギスカン説」を参照
この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。
この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が元ネタである[26]。
このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は、当時中国の属国としか見られていなかった日本の自己主張のために、ケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。
大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになった事によるものである。
こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられる事はなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。
しかし、現在では後年の研究の結果、チンギス・ハーンのおおよその生年も父親の名前もはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・ハーン説は科学的には完全に否定されている。
菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書で以下の説を述べている。
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないのである。
上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している。
元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に付き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。
合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。
頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。
義経は頼朝追討の院宣を得たにも関わらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与える事が出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。
退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
「源義経が登場する大衆文化作品一覧」を参照