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凡例
織田信長 |
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愛知県豊田市長興寺蔵 紙本著色織田信長像[1]
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
| 生誕 | 天文3年5月12日(1534年6月23日) |
| 死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
| 改名 | 吉法師(幼名)、信長 |
| 別名 | 通称:三郎、上総守、上総介 渾名:第六天魔王[2]、大うつけ、赤鬼 |
| 神号 | 建勲 |
| 戒名 | 総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀 |
| 墓所 | 本能寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院 阿弥陀寺 他 |
| 官位 | 従五位下・弾正少忠、正四位下・弾正大弼 従三位・参議、権大納言、右近衛大将 正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位 贈従一位・太政大臣、贈正一位 |
| 主君 | 織田信友→斯波義銀→足利義昭 |
| 氏族 | 織田氏 |
| 父母 | 父:織田信秀、母:土田御前 |
| 兄弟 | 信広、信長、信勝、信包、信治、信時 信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利 お犬の方、お市の方 |
| 妻 | 正室:濃姫 側室:生駒吉乃、お鍋の方、原田直子 |
| 子 | 信忠、信雄、信孝、 他下記を参照。 |
織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
見識の広さや合理性と冷徹さを兼ね備えた知性により、尾張国守護代の一家老に過ぎなかった織田家(弾正忠家)を、全国第一勢力にまで押し上げた人物である。強力な中央政権の基礎を築き、天下統一を目指したが、志半ばにして死亡。その遺志は豊臣秀吉、徳川家康に引き継がれた。
目次 |
尾張国・古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれ[3]、幼少時に那古屋城主となっている。
天文20年(1551年)、急死した父の後を受けて家督を継ぐも、同母弟・織田信行(信勝)と家督争いが発生する。これに勝利すると、その後は敵対勢力を次々と下していき、尾張国を統一した。
永禄3年(1560年)、兵力的に圧倒的優位にあった今川義元を桶狭間の戦いで破り世に名を轟かせた。永禄10年(1567年)には美濃国の斎藤氏を滅ぼし、その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たした。義昭を将軍職につけ擁立するも次第に関係が悪化し、元亀4年(1573年)にはこれを追放した。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を用いた(織田政権)。
その事業は重臣の一人・明智光秀の謀反に遭い頓挫、自身も横死した。その後、政権を簒奪した羽柴秀吉が、信長の築いた足場をもとに天下統一を進め、ついには成し遂げることとなったことから、秀吉が継ぎ徳川家康が完成させる形となった日本近世の形成事業の創始と言うべき位置づけにあった人物である。
天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、勝幡城(那古野城説もある)で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官、下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家、即ち清洲織田家の家臣にして分家でもあった清洲三奉行・古渡城主の織田家という家柄であった。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送されていたが、松平氏家中の戸田康光の裏切りにより、織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、のちに両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介信長[4]と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐ[5]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは、奇行が目立つ信長を諌めるための死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。
当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにもかかわらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していった。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。斯波義統の息子斯波義銀が斯波家の手勢を率いて川狩に出た隙に、これに激怒した織田信友は斯波義統を殺害する。
このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君義統を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明である。
弘治2年(1556年)4月、義父斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長も道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦、道三敗死の知らせにより退却した。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟信勝を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。
道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てる事件も起きたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏、信長はこれも赦免している。しかし、弘治3年(1557年)信勝は再び謀反を企てる。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。
さらに信長は、同族の犬山城主織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏と、同じく足利氏一門にあたる吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、信長は尾張守護家の斯波義銀を尾張から追放した。こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立した。
永禄2年(1559年)2月2日、織田信長は尾張から100名ほどの軍勢を引き連れて室町幕府のある京都へ上洛し、14代将軍足利義輝に謁見した。当時、将軍足利義輝は尾張守護斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長は、そこへ出仕した。
尾張国統一を果たした、翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河国・遠江国・三河国を支配する義元の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍は、これに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒にして、織田軍の城砦は次々と陥落していった。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日、午後一時幸若舞『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、装具を身に着け馬に乗り出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、本国駿河国に潰走した(桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏はその勢力を急激に衰退させる。これを機に、今川氏の支配から独立していた、三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。当時、信長は美濃国の攻略の為に斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐国の武田信玄や、駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、利害関係が一致していた。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。
永禄9年(1566年)には美濃国の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉良通、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[6]。 また、この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。
一方で信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。
この頃、中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて京から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。
一方で、美濃国において領国を接する甲斐の武田信玄とは永禄年間から外交関係が見られるが[7]、武田氏とは信玄の四男諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には嫡男信忠と信玄の六女松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。
そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[8]。 信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。こうして足利義昭を第15代将軍として擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国(このとき、信長は義昭から管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる)。
永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中を僅か2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せたといわれている[9]。。
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。
伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠具教が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日のうちに岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込んだ。のち北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。
詳細は「信長包囲網#第一次包囲網」を参照
永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになる。
元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前国の朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井氏に背後を突かれる形となった。挟撃される形となり窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍であったが、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉・徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであった。
これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。
対して信長は浅井を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど[10]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。
元亀元年(1570年)8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に寝返った。
10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐国の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万人。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江国、三河国に侵攻を開始する(西上作戦)。これに対して織田・徳川連合軍も抵抗した。
しかし、武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では、城主・遠山景任が病死。その景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。おつやの方は信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐国に人質として送られ、東美濃の大半も武田氏の支配下に落ちた。
また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死した。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。しかも信玄の上洛に呼応する形で、足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。信長は三河国にいる武田軍を無視して岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけた。4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死。これにより武田軍は甲斐国へ帰国した。
武田信玄の死去によって信長は態勢を立て直した。そうして7月、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京都から追放。これをもって室町幕府は滅亡した。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。
9月24日、信長は尾張国・美濃国・伊勢国の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始する。ところが撤退途中に一揆軍による追撃が始まると織田軍は苦戦し、林通政が討死した。
11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。
詳細は「長島一向一揆」を参照
天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。
7月、信長は3万人の大軍と、織田信雄、滝川一益、九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含んでおり戦に関して全くの素人という訳では無く抵抗は激しいものであった。しかし、8月に入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾く。
9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出ると信長もこれを了承した。しかし、弟の信興や家臣を殺された信長は、敵の油断を突き船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせ掛けた。しかし、これに激怒した一揆側の一部が織田軍に襲いかかり、信長の庶兄・織田信広、信長の弟・織田秀成など多くの織田一族の将が討ち取られた。
さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取った。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって撫で斬りされたと言われる。この戦によって信長は長島を占領することに成功した。
翌天正3年(1575年)3月荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺、高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城、石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。
詳細は「長篠の戦い」を参照
天正3年(1575年)4月、武田勝頼は父・信玄の死後、武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる。この長篠の戦いで、信長は1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する[12]。 この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたが、この下間頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた。
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。これに対して既に内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐されたと言われている[13][14]。こうして越前国は再び織田領となり、信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたと言われている。
詳細は「信長包囲網#第二次包囲網」を参照
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に織田氏の家督ならびに美濃国・尾張国などの領地を譲って建前上隠居した。しかし、引き続き信長は織田氏の政治・軍事を執行する立場にあった。
天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対し信長は4月、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが伏兵の襲撃にあって大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。
大坂の織田軍は勢いづく本願寺軍の攻勢に窮して天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。信長は5月5日に若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。しかし信長は5月7日早朝、その3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入った。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、本願寺軍を撃破した(天王寺砦の戦い)。
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。
この頃、越後国の上杉謙信と信長との関係は悪化し[15]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。
これに対し信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという(人質の提供も無い、形だけのものと言われている)。こうして形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。
大和国の松永久秀が信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。松永を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城、籾井城、笹山城などの丹波国の諸城を攻略した。
11月、能登、加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻、織田軍は手取川において1000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれる。 天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めることなく急死したため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし織田軍は上杉領の能登国、加賀国を攻略する。かくして謙信の死を契機に、またも信長包囲網は崩壊した。
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた[16]。
上杉謙信の死後、お家騒動を経て上杉氏の家督を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・信忠、河尻秀隆、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。
織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登国・加賀国を奪い、越中国にも侵攻する勢いを見せた。
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、また毛利軍が、同年7月、上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、荒木の与力の一人であり東摂津に所領を持つ中川清秀、高山右近は信長に寝返る。
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略。天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。
天正7年(1579年)、伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄は、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を総大将とする4万人の軍勢で伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。
天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じた。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた。これに関しては異説もあり、家康・信康父子の対立が真因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだという説もある(詳細は松平信康#信康自刃事件を参照 )。
天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際を理由に追放処分とした。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。
天正7年(1579年)11月、信長は織田家の二条の京屋敷(本邸)に皇太子である誠仁親王を住まわせることを思いつき、直ちに実行された。
詳細は「武田征伐」を参照
天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[17]。 このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。
同年5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』では信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害したという主張が記録されている。一方、高野春秋では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえるとともに、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城など領国再建や、人質であった織田信房を返還し信長との和睦(甲江和与)を模索していたが良好に進まず、同年2月3日に信長は武田領国へのに本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令した。そして、駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から信忠が、それぞれ武田領への攻略を開始した。信忠軍は、軍監・滝川一益と、信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上ったと言われている。これに対して武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。
信長が武田征伐に出陣したのは3月8日であるが、その日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が、武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後に信長は、「武田に属していた者はたとえ恭順の意思を示そうとも容赦無く一族まとめて根絶やしにせよ」とする、いわゆる「武田狩り」を命じた[18][19][20]。
武田氏滅亡後、信長は駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与えて北条氏直への抑えとしつつも、同盟関係を保った。
詳細は「本能寺の変」を参照
天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男・神戸信孝、重臣・丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。
3月11日、北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉家は、北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。
家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。「毛利氏が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」とのことであった。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。のち『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。
信長は5月29日、中国遠征の出兵準備のために上洛し、その後は京の本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたと言われる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の明智軍を前には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。享年49(満48歳没)(本能寺の変)。
光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。これは当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われており、火薬が備蓄されており、信長の遺体は爆散したものと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。
平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。
| 和暦 | 西暦[21] | 月日[21] | 内容 | 出典 | 年齢 |
|---|---|---|---|---|---|
| 天文3年 | 1534年 | 5月12日 | 勝幡城で生誕(那古野城とも)。 | 1歳 | |
| 天文4年 | 1535年 | 那古野城主となる。 | 2歳 | ||
| 天文15年 | 1546年 | 元服。三郎信長を名乗る。 | 13歳 | ||
| 天文18年 | 1549年 | 2月24日 | 濃姫と結婚。 | 16歳 | |
| 上総介を称する。 | |||||
| 天文20年 | 1551年 | 父・信秀の死亡により家督相続。 | 18歳 | ||
| 天文23年 | 1554年 | 本拠を清洲城に移転。 | 21歳 | ||
| 弘治3年 | 1557年 | 11月2日 | 弟・信勝(信行)を暗殺。 | 24歳 | |
| 永禄2年 | 1559年 | 2月2日 | 初上洛、将軍足利義輝と面会。 | 26歳 | |
| 永禄3年 | 1560年 | 5月19日 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ。 | 27歳 | |
| 永禄6年 | 1563年 | 本拠を小牧城に移転。 | 30歳 | ||
| 永禄9年 | 1566年 | 尾張守を称する。 | 33歳 | ||
| 永禄10年 | 1567年 | 8月15日 | 本拠を岐阜城に移転。 | 34歳 | |
| 永禄11年 | 1568年 | 10月18日 | 上洛、足利義昭を第15代将軍に就任させる。 | 35歳 | |
| 10月28日 | 従五位下弾正少忠 | 系図纂要 | |||
| 元亀元年 | 1570年 | 3月14日 | 正四位下弾正大弼 | 系図纂要 | 37歳 |
| 12月13日 | 勅命により、浅井氏・朝倉氏・六角氏と和睦。 | ||||
| 天正元年 | 1573年 | 4月7日 | 勅命により、将軍義昭と和睦。 | 40歳 | |
| 天正2年 | 1574年 | 3月18日 | 従三位参議 ※『歴名土代』では天正2年3月18日に従五位下に叙位。同日、昇殿と記載。 |
公卿補任 | 41歳 |
| 3月28日 | 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。 | ||||
| 天正3年 | 1575年 | 11月4日 | 権大納言 | 公卿補任 | 42歳 |
| 11月7日 | 右近衛大将兼任 | 公卿補任 | |||
| 11月28日 | 織田家の家督を嫡男・信忠に譲渡。 | ||||
| 天正4年 | 1576年 | 本拠を安土城に移転。 | 43歳 | ||
| 11月13日 | 正三位 | 公卿補任 | |||
| 11月21日 | 内大臣。右近衛大将兼任。 | 公卿補任 | |||
| 天正5年 | 1577年 | 11月16日 | 従二位 | 公卿補任 | 44歳 |
| 11月20日 | 右大臣。右近衛大将兼任。 | 公卿補任 | |||
| 天正6年 | 1578年 | 1月6日 | 正二位 | 公卿補任 | 45歳 |
| 4月9日 | 右大臣、右近衛大将両官辞任(織田家の嗣子信忠は引き続き従三位左近衛中将)。 | 公卿補任 | |||
| 天正8年 | 1580年 | 3月5日 | 勅命により、本願寺との講和が成立。 | 47歳 | |
| 天正9年 | 1581年 | 2月28日 | 京都内裏東にて京都御馬揃えを行う。 | 48歳 | |
| 天正10年 | 1582年 | 6月2日 | 本能寺の変、自刃。 | 49歳 | |
| 10月9日 | 従一位太政大臣を贈位贈官。 | 大徳寺文書 | |||
| 大正6年 | 1917年 | 11月17日 | 正一位を贈位。 |
訓読すれば「天下に武を布く(てんがにぶをしく)」となる。「武力を以て天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」と解釈することが多い。上述のように信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を用いている。
信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)で学界は二分されている。朝廷の代表者である正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人・立花京子らが実証研究に基づく本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど、本能寺の変の真相研究などと絡んで論争が活発になっている[24]。
ただし、残存史料が不完全なこともあり、信長と朝廷の出来事をめぐっては全く違う解釈が可能である。
谷口克広は、いずれかの説をとる研究家を以下のように分類している[25]。
以下、信長と朝廷との関係についての論点と双方の説について述べる。[26]
天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。
信長が天正9年(1581年)に行った「馬揃え」への評価。
信長は尾張時代には上総介[4]を自称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って備後守や三河守の官を得た父信秀とは対照的である。今川義元を破って後は尾張守を称している。
足利義昭を奉じて上洛した後も弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじている。しかし将軍足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇した。天正2年(1574年)に参議に任官して以降わずか3年で従二位右大臣に昇進している。これは武家としては源実朝以来の右大臣任官であり、彼以前に上位を占めた武家は平清盛・足利義満・義持・義教の4人しかいない。しかし天正6年(1578年)4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。
この後二度にわたって信長の任官が問題となり、二度目となる天正10年(1582年)5月には武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって2つの説が存在している。これが三職推任問題である。信長の朝廷に対する姿勢を考える上で重要な問題であるが、信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような考えを持っていたかは不明である。
詳細は「三職推任問題」を参照
三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。
信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、修理亮や筑前守など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、徳川家康や佐竹義重といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。
商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させた。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。
基本的に他家と比較して重臣の権限や裁量余地が大きい。柔軟であると同時に体制・統治に関する成文が非常に少なく一面では杜撰とも言える。
江戸時代においては小瀬甫庵が記した『信長記』によって知られたが、『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。明治以降は信長が行った御料所回復等の事蹟が勤皇家としての評価につながり、明治2年(1869年)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に織田信長を祀る社を建立した。この時信長を祀る社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された[30]。
戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。またルイス・フロイスが記した『日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」[2]という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、その設定を利用したフィクション作品も数多く生まれている。実際、秀吉・家康に与えた信長の影響は計り知れない。事実この2人は後継者にそれぞれ織田の血を引く者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。
詳細は「織田氏」を参照
織田氏は平氏や藤原氏とも自称するが、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏と考えられる。越前に地盤を築き、尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。織田信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。
庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。信貞と信好の間に織田信親なる庶子が存在したとする家伝もあるが、信憑性の程は不明である。
他に有力重臣として九鬼嘉隆、細川藤孝、荒木村重、池田勝正、松永久秀、筒井順慶、武井夕庵、森長可、西美濃三人衆などもいる。
以下の場所に墓所および霊廟がある。
その他、各地に供養塔・建勲神社などがある。
山崎の合戦後、秀吉は信長を弔うため、京都の北船岡山に寺を建てようとして天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年(1588年)、建立の責任者であった蒲庵古渓が秀吉の怒りを買って追放されたため、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
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