薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、西海道に位置する。現在の鹿児島県西部にあたる。薩州と呼ばれることもある。『延喜式』での格は中国、遠国。長官は薩摩守。
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大宝2年(702年)に、日向国から唱更国が設けられた。唱更(はやひと)は、辺境を守るという意味である。『続日本紀』8月1日条にある、薩摩多褹を征討し戸を校して吏を置いたという記事が、唱更国と多褹国の建置を示すと考えられている。
唱更国は、数年以内に薩麻国に改められた。8世紀半ば以降のいずれかの時点で薩摩国に改称した。
薩摩国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。
国府は現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。
『延喜式神名帳』には以下の小社2座2社が記載されている。
一宮は元々は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、国府の近くにある式外社の新田神社(薩摩川内市)が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。総社は、新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となっている。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
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![]() 07:50 | 小松帯刀 |
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