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豊田 有恒(とよた ありつね、1938年5月25日 - )は、日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家。本名の表記は同一だが、豊田の読みが「とよだ」と濁る[1]。日本SF作家クラブ会員。
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群馬県前橋市の医家の生まれ。父親は京大短歌会時代に若山牧水と交際があり、京都帝国大学医学部卒業後は『創作』誌に小説を発表し、開業医になってからは自宅に高浜虚子を逗留させるなど文学に理解のある人物だったという[2]。こうした家庭環境の中で有恒も群馬大学教育学部附属小学校在学中から父の蔵書に読み耽り、俳句や講談や落語に熱中していた[3]。
中学時代は読売新聞の作文コンテストで群馬県下2位に入賞[4]。中学卒業後に上京し、武蔵高等学校に進む。高校時代は同校の寮に住み、演劇部に関係していた。校内の札付きの不良生徒とばかり交際して問題も起こしていたが、優等生であるため免罪されたという[5]。高校2年のとき、医師だった兄が脊髄腫瘍でギプスベッドに入ったきりになった上、父の急死に遭い、家業を継ぐ必要に迫られて医学部進学を決める。
1957年、現役で東京大学理科二類(医学科進学課程を含む。当時、理科三類は存在しなかった)に合格したが、東大に悪印象を抱いために慶應義塾大学医学部に進学。しかし入学直後に兄が快復したため家業を継ぐ義務から解放され、高校時代の猛勉強の反動で麻雀やハワイアンバンド等に熱中して一度も進級できぬまま留年を繰り返し、放校処分を受ける[6]。
このころ、同郷同学の高齋正を通じて元々社のSFシリーズや『SFマガジン』創刊号に触れ、SFに熱中し始める。のち、母の配慮から[7]武蔵大学経済学部に入学。在学中、1960年、『オール讀物』新人賞に『モンゴルの残光』を応募し落選。1961年、『時間砲』で第1回空想科学小説コンテスト(後のSFコンテスト)の佳作に入賞。1962年、『火星で最後の……』で第2回ハヤカワ・SFコンテストの佳作に入賞し、SF作家としてデビュー。
武蔵大学在学中から、SF仲間だった平井和正の依頼で、平井原作のアニメ『エイトマン』の脚本を手がける[8][9]。武蔵大学卒業後、商社、広告代理店、出版社や野田昌宏の紹介でフジテレビの入社試験を受けたが全て失敗[10][11]。大学在学中にSF同人誌『宇宙塵』の会合で会った手塚治虫に『エイトマン』での手腕を買われて[12]、1964年、嘱託社員として虫プロダクションに入り、『鉄腕アトム』を初めとしてアニメのシナリオを手がける。大卒初任給が2万円前後の時代に、虫プロでの豊田の初任給は6万4000円だったという[13]。
虫プロダクションでは続けて『ジャングル大帝』などの脚本を手がけたが、1965年にいわゆるW3(ワンダースリー)事件で『ナンバー7』のキャラクターの一つ「宇宙リス」がTBSの『宇宙少年ソラン』に同種のキャラクターが登場したことから手塚治虫の誤解を受け、スパイと嫌疑で手塚から怒鳴りつけられ、虫プロを退職してTBSの通称漫画ルームに移り、『スーパージェッター』『宇宙少年ソラン』のシナリオを書いた。その後、手塚から受けた誤解は解け、手塚の晩年まで公私に渡って交流は続いた。なお、問題の『宇宙少年ソラン』には石原弘一のペンネームを用いての参加となった[14]。作家として売れ始めたことから、1967年の『冒険ガボテン島』を最後にアニメの脚本からは手を引き、専業の作家として活動する[15]。
SF作家生活の初期には宇宙パトロール隊員タキイを主人公にした宇宙SFなど本格SFを手がけ[16]、『タイムパトロール』などの代表作があるポール・アンダースンに傾倒して、アンダーソン作品を翻訳した他、自らオリジナルのタイムパトロールものの、ヴィンス・エベレットシリーズを執筆[17][18]、後にヤマトタケルを主人公にした初の本格的和製ヒロイックファンタジーのヤマトタケルシリーズなど歴史的な物へと変貌して行った。中でも1972年発表の『倭王の末裔』はベストセラーになった[19][20]。他にジュブナイル作品や、世相を風刺したドタバタ系の短編小説といったジャンルで活躍した[21]。
その他の代表作に、モンゴル帝国が世界を支配したパラレル・ワールドを描いた『モンゴルの残光』、架空戦記の先駆作品といえる『タイムスリップ大戦争』『パラレルワールド大戦争』など。
1970年代には虫プロ時代の同僚からの依頼で数年ぶりのアニメの仕事となる『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原案、設定にも携わる[22]。宇宙戦艦ヤマトについては『西遊記』に基づいてストーリーを作り[23]、、自らは創作著作権を主張せず、西崎義展・松本零士の著作者人格権をめぐる争いでは、松本零士を支持していた[24]。
1986年から1987年にかけて日本SF作家クラブの会長職[25]を務めた。1966年には企画集団パロディギャングを広瀬正、水野良太郎、伊藤典夫らと結成するもまもなく脱退[26]。1982年頃から1991年にかけては、創作集団パラレル・クリエーションを主宰し、出渕裕、星敬、米田裕らが在籍した[27][28][29]。
原子力発電所好きを公言し、その安全性に絶大な信頼を寄せ、事故そのものの危険性よりも軽微な事故の際のマスコミのセンセーショナルな報道の影響力こそ危険であると懸念を示している[30]。
その後、作家業の傍ら島根県立大学総合政策学部教授として、日本地域文化論などを教える。
韓国に造詣が深く、自身、韓国語を使いこなす。渡韓歴も多い。古代韓国を舞台の1つにしたSF小説『倭王の末裔』の取材のため渡韓したのがきっかけだが、その他の作品でも韓国人の登場人物が多い。しかしその分、評論においては韓国に対してシビアな論陣を張る。産経新聞の黒田勝弘ソウル支局長と親交が深い。
![]() 10:08 | ヤマト わが心の不滅の艦10-2 |
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