鉄砲伝来(てっぽうでんらい)とは、15世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃型の鉄砲が伝わったこと、狭義には日本の種子島に伝来した事件を指す。鉄砲現物のほか、その製造技術や射撃法なども伝わった。
「鉄砲」とは日本においてはじめは火縄銃をさす言葉として使われ、後に小銃から大砲まで火器一般を意味する名称となった。
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東アジアから東南アジアにおいて、15世紀には中国の明が海禁政策を行い、また日本の室町幕府との日明貿易(勘合貿易)が途絶した事などにより倭寇(後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた。日本や琉球王国においても原始的な火器は使用されていて、火器は倭寇勢力等により日本へも持ち込まれていたらしい。
鉄砲の伝来は、初期の火縄銃の形式が東南アジアの加圧式火鋏を持った鳥銃に似ている事や東南アジアにおいても先行して火縄銃が使われていた事などから、種子島への鉄砲伝来に代表されるようなヨーロッパ経由でなく倭寇などの密貿易によって東南アジア方面から持ち込まれたとする説がある(宇田川武久説)。しかし欧米や日本の研究者の中には、欧州の瞬発式メカが日本に伝えられて改良発展したものが、オランダによって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説をとる者も少なくなく、宇田川説を否定的にみる意見も多い。
『鉄炮記』によれば、種子島への鉄砲伝来は天文12年8月25日 (旧暦)(ユリウス暦1543年9月23日)の出来事で、大隅国(鹿児島県)種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人(「牟良叔舎」、「喜利志多佗孟太」)が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。
やがて鉄砲鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一を左右することになる。後に徳川家康による覇権の成立後、日本は武器輸出を禁止した。
伝来当初は猟銃としてであったがすぐに戦場で用いられ、当時の鉄砲はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、すぐに装填できるよう改良された。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。九州や中国地方の戦国大名から、やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が1575年(天正3年)に甲斐武田氏との長篠の戦いをはじめとする戦で、鉄砲を有効活用したとされ、鉄砲が戦争における主力兵器として活用される軍事革命が起こる。
『鉄炮記』は鉄砲伝来を記す唯一資料であるが、江戸時代の慶長年間(1606年)に種子島氏が鉄砲伝来を記念して記させたもので、歴史学においては、その記述を無条件に信用するわけにはいかない。
『鉄炮記』には「天文癸卯」(1543年)と記されているが、一方でポルトガル側の史料には鉄砲の伝来を記さないものや、イエズス会の『日本教会史』には1542年(天文11年)の出来事、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』には1545年(天文14年)の出来事であると記されているなど年代には諸説が存在する。また、『鉄炮記』に「五峰」と記されている人物は、日本の平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領である王直の号と同じであり、またポルトガル史料にはジャンク船であったと記されていることなどから同一人物であるとも考えられている。
種子島氏に伝わる記録には、ポルトガル人により持ち込まれた鉄砲は明治の西南戦争の際に消失したとされる。また、国産第1号と伝わる鉄砲が存在している。
見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたると云て、目当てと うつ。我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。(中略)氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし
ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた[1]。
日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない[1]。伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。
| 著者 | 国 | 著書 | 言及年 | 発行年 |
|---|---|---|---|---|
| アントニオ・ガルヴァン | ポルトガル | 『発見記』 | 1541年 | 1563年 |
| フェルナン・メンデス・ピント | ポルトガル | 『遍歴物語』 | 1543年 - 1544年 | 1614年 |
| ジョアン・ロドリゲス | ポルトガル | 『日本教会史』 | 1542年 | 1634年 |
| ディエゴ・ド・コウト | ポルトガル | 『アジア誌』 | 1542年 | 1612年 |
| ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラード | ポルトガル | 『ビーリャロボス艦隊報告』 | 1542年 | 1548年 |
| 南浦文之 | 日本 | 『鉄炮記』 | 1542年(天文11年)8月25日 | 1606年 |
上記の他にも鄭瞬功が記した『日本一鑑』(1565年)や、ジャン・ピエトロ・マッフェイが記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、坪井九馬三やゲオルグ・シュールハーメルらが『鉄炮記』の説を採用し、今日の1543年に落ち着いた[1]。
現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない[1]。
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