| たかみね ひでこ 高峰 秀子 |
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| 本名 | 松山 秀子 まつやま ひでこ |
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| 生年月日 | 1924年3月27日(85歳) | ||||||||||
| 出生地 | 日本・北海道 | ||||||||||
| 民族 | 日本人 | ||||||||||
| 職業 | 女優、歌手、文筆家 | ||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||
| 活動期間 | 1929年 - 1979年 | ||||||||||
| 配偶者 | 松山善三 | ||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||
| 『二十四の瞳』、『浮雲』、『カルメン故郷に帰る』、『喜びも悲しみも幾歳月』 | |||||||||||
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高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年3月27日 - )は、函館市出身の日本の女優、歌手、エッセイスト。愛称:デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名:松山秀子、旧姓:平山。日本映画史を代表する大女優の一人。多くの大監督と仕事をともにしているが、とりわけ戦後は木下恵介、成瀬巳喜男両監督作品の顔として数々の名作に主演した。 身長153cm
1929年映画『母』に子役でデビュー、1979年に引退宣言。引退後は普段の生活に根ざしたエッセイを多数発表している。
目次 |
*太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品(戦後のみ)
デビューから1937年までの子役時代を過ごす。日本のシャーリー・テンプルと呼ばれる。共にオデコであったのでデコちゃんの愛称がつく。この時代に既にスターとしての人気を博しており、島津保次郎監督『愛よ人類と共にあれ』(1931) では男の子役を演じるなど、天才子役の名を欲しいままにしている。
映画人の多くに可愛がられており、東海林太郎は養女に引き取ろうとしたほどであった(高峰の養母の反対で実現せず)。また一方では養母の強烈な愛情への戸惑いや、彼女のギャランティーで家族全体が生活していることへの精神的な負担など、家庭においては一概に幸福とは言えない状況であった。
1937年、彼女は当時勢力を伸ばしつつあった東宝へ移籍する。松竹では学校にも通えないほど売れっ子であるにもかかわらず、狭いアパート住まいで貧しかったが、桁違いのギャラと世田谷の一軒家と高等女学校へ通えるという条件付きであった。彼女は文化学院へ入学するが、撮影でほとんど出席できず、結局1年で退学した。
東宝では『綴方教室』、『馬』(共に山本嘉次郎監督)などの映画に出演し、天才子役から女優へと脱皮していった。『馬』で助監督を務めた黒澤明と撮影中に恋に落ちたが、母親の反対で強引に別れさせられた。この『馬』の長期ロケで山形県最上町に滞在した際に、高峰に一目惚れしたのが門脇貞男少年(後のケーシー高峰)で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。
1941年には後に多くの名作を生み出すことになる成瀬巳喜男監督とのコンビを『秀子の車掌さん』で初めて組んだ。
戦争中においても彼女の人気は上昇し続け、多くの映画に出演した。また出征兵の中には彼女のブロマイドを胸に戦地へと旅立った者もおり、戦後の彼女の反戦思想に大きな影響を与えた。
戦時中の彼女の代表作は『婦系図』、『阿片戦争』などマキノ雅弘(当時は正博)監督作品が上げられる。
大河内伝次郎の当たり役『丹下左膳』にも出演しており(『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』。ただし『恋車の巻』の映像は現存せず)、それが縁で当時建設中であった女人禁制の大河内山荘に招かれた。
東宝争議に巻き込まれた結果、彼女も新東宝へ移籍することになる。太宰治の遺作『グッドバイ』や谷崎潤一郎の傑作『細雪』の映画化に出演したのもこの時期である。谷崎とは彼の家族を交えた形で、以後も交流が続いた。
『宗方姉妹』で小津安二郎監督作品にも出演を果たしている。
市川崑は助監督時代に彼女の家に下宿していた仲(それ以前に京都で隣室同士に下宿して食事などを共にしており、その縁を頼って急な東京転勤となった市川が高峰家に転がりこんだ)であり、デビュー作から二本に主演。その後彼が大監督となってからの出演はないものの、のち映画「東京オリンピック」で大論争が巻き起こった際に「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた大臣は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」と擁護コメントを雑誌に寄せ、変わらぬ友情を示した。
女優としての黄金時代を迎えたのがこの時期である。数々の名監督とタッグを組み、八面六臂の活躍を見せた。
松竹においては木下惠介監督作品に多く出演し、日本初のフルカラー作品となった『カルメン故郷に帰る』をはじめ、『カルメン純情す』、『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』などの作品に出演した。『二十四の瞳』の撮影で当時木下の助監督をしていた松山善三と出会い、1955年結婚する。仲人は川口松太郎、三益愛子夫妻に木下惠介の3名だった。
東宝においては成瀬巳喜男監督作品に多く出演し、『浮雲』をはじめ『女が階段を上る時』(衣装も彼女が担当した)、『流れる』、『乱れる』、『妻の心』、『放浪記』、『娘・妻・母』などの作品に出演した。
大映においては豊田四郎監督作品『雁』などに出演した。その他、夫の松山善三監督のデビュー作品『名もなく貧しく美しく』(東宝)、豊田四郎監督『恍惚の人』(東宝)、稲垣浩監督『無法松の一生』(東宝)、増村保造監督『華岡青洲の妻』(大映)など映画史に名を残す傑作群に出演を果たす。なお、主要映画会社の中で彼女と関わりのない東映、日活については 1960年代以降のいわゆる『ヤクザ映画』によい感情を抱いていなかったようである。
映画では年少(それもしばしば大幅に)の男優と夫婦役を演じることが非常に多かった。佐田啓二をはじめ、田村高廣、仲代達矢、若山富三郎、天本英世、宝田明らである。この傾向は木下惠介作品に著しい。すべてが円満な夫婦像ではないが、(おおむね)若い二枚目達を相手に包容力と強さ優しさを備えた日本の妻の姿を提示し続けたといえる。
63年から出演本数が減り、68年以降はTVドラマでも活躍のほか、フジTV「小川宏ショー」内の「高峰秀子対談」コーナーの聞き手を勤めた。
そんな中、1971年2月に高峰は国会の席においてテレビのクイズ番組を低俗だと非難。そもそもの発端はフジテレビで放送されていた「クイズ・キングにまかせろ!」の賞品(1000万円のマンションの所有権)が独占禁止法に違反しているという告発によるものだった。この騒動で高峰は「俳優を毒するクイズは最低のいやしさだ。」と弁明。その騒ぎを受けて公正取引委員会は、全てのクイズ番組に対し賞金額の見直しを求め、同年9月に全てのクイズ番組の賞金(賞品)の上限を100万円までに定めるまでに至った。
72年10月には東京紀伊国屋ホールで反戦劇「ケイトンズヴィル事件の九人」に出演。
1979年、木下惠介監督の映画『衝動殺人 息子よ』を最後に女優を引退。以後は軽妙なタッチながら鋭い人間観察を披露するエッセイを多数発表している。女優時代の思い出などを綴った著書『わたしの渡世日記』は当時のベストセラーになった。また、松山善三が監督を務めた映画『典子は、今』等には助監督として製作に参加していた。
2003年には松山善三が監督を務めた映画『葉っぱのフレディ』で朗読を担当している。
![]() 02:56 | 銀座カンカン娘 高峰秀子 |
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![]() 06:48 | めかけ <Mistress> |
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![]() 03:03 | 高峰秀子 カルメン故郷に帰る |
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![]() 04:16 | 昭和45年(1970)のコマーシャル TV CM (大阪万博の年) |
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![]() 01:50 | いとしの黒馬(あお)よ |
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