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日本の政治家
鳩山 由紀夫
はとやま ゆきお
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| 生年月日 | 1947年2月11日(63歳) |
| 出生地 | 東京都文京区 |
| 出身校 | 東京大学工学部卒業 スタンフォード大学大学院修了 |
| 前職 | 専修大学経営学部助教授 |
| 所属政党 | (自由民主党→) (新党さきがけ→) (旧民主党→) 民主党 |
| 称号 | Ph.D.(スタンフォード大学・1976年) |
| 親族 | 鳩山和夫(曾祖父) 寺田栄(曾祖父) 鳩山一郎(祖父) 鳩山威一郎(父) 鳩山邦夫(弟) 鳩山太郎(甥) |
| 配偶者 | 鳩山幸(妻) |
| 公式サイト | 鳩山由紀夫ホームページ |
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第93代 内閣総理大臣
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| 内閣 | 鳩山由紀夫内閣 |
| 任期 | 2009年9月16日 - 2010年6月8日 |
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| 選挙区 | (旧北海道第4区→) 北海道第9区 |
| 当選回数 | 8回 |
| 任期 | 1986年 - 現職 |
鳩山 由紀夫(はとやま ゆきお、1947年(昭和22年)2月11日 - )は日本の政治家。学位はPh.D.(スタンフォード大学・1976年)。衆議院議員(8期)。
東京工業大学工学部助手、専修大学経営学部助教授、内閣官房副長官、新党さきがけ代表幹事(第2代)、旧民主党代表(初代)、民主党代表(第2・7代)、内閣総理大臣(第93代)などを歴任した。
目次 |
東京都文京区に大蔵官僚(のちに参議院議員)だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京都立小石川高等学校を経て、東京大学工学部応用物理・計数工学科を卒業。その後、スタンフォード大学の博士課程でオペレーションズ・リサーチを専攻しPh.D.を取得(1976年 博士論文はシステムの信頼性解析に関するもの)。1976年東京工業大学助手、1981年に竹下登が理事長をつとめ、曾祖父鳩山和夫が設立に大きく貢献した専修大学の経営学部助教授に就任したが、1984年3月に政界入りをこころざして退職した[1]。
政治家を志したきっかけは中川一郎の存在だったというが[2]、弟である鳩山邦夫は2009年9月15日で放送されたフジテレビのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』のなかで、「(弟が政治家になったから)自分もやってみようかな」であるともいわれている。1986年、第38回衆議院議員総選挙で、自民党の公認を得た田中派新人として、鳩山家が牧場を所有し中選挙区時代は出陣式行っていた鳩山神社という神社がある祖父の代からの地盤北海道から[3]、出馬した。鳩山事務所側は、「立候補の直接のきっかけは三枝三郎衆議院議員の引退がきっかけ」と主張している[4]。初の選挙スローガンは科学者を志望していた自身の経歴をアピールした「政治を科学する」であった[5]。得票数では同じ自民党の高橋辰夫に次いで2番目の得票数で当選した。小選挙区になった1996年以降は、鳩山家が開拓した地域は鳩山の選挙区から外れた(小平忠正が選出されている北海道10区内の栗山町)[6]。なお、地方区分の選挙区自体は祖父と重複していないため、祖父の地盤を世襲していないと扱われている[7]。
当時39歳、弟邦夫に遅れること10年と、決して早いとはいえない政界入りだったが、豊富な資金力[8]に加え、祖父以来の人脈や名門出身の毛並みの良さ・知名度に支えられ[9]、短期間で頭角を現し、1990年代の政界再編期に、一躍、中心的存在となっていく。
1988年には86年当選組を中心とした派閥横断的な政策集団として、のちの新党さきがけの母体となる「ユートピア政治研究会」を結成、リクルート疑惑に揺れる党内にあって、自民党の巨額の政治資金の実態を明らかにして反響を呼び、1990年代の「政治改革」運動の萌芽となった。
1993年、政治改革を巡り自民党を離党。武村正義らと新党さきがけを結成参加。総選挙後、非自民・非共産連立政権で成立した細川護煕内閣では内閣官房副長官(政務)に就任し、新党さきがけ代表の武村官房長官、代表代行の田中秀征首相特別補佐、日本新党代表幹事で、のちに、新党さきがけに移籍する荒井聡とともに細川内閣を支えた。
日本社会党委員長村山富市を首班とする自社さ連立政権では、さきがけ初代代表幹事園田博之の官房副長官就任にともない、後任の幹事長として政権を支えた。
1994年秋、翌春の北海道知事選に出馬がとりざたされ本人も乗り気だったが、村山と武村と井出正一の説得で断念[10]。自民党と自由連合の共同推薦候補伊東秀子を支持したが、横路孝弘後継で新進党と日本社会党の推薦候補堀達也に敗北した。
1995年7月、第17回参議院議員通常選挙で新党さきがけ代表幹事として山中あき子を北海道選挙区で擁立画策したが山中は辞退。
1996年春頃から新党さきがけの党名を発案した簗瀬進や簗瀬と同じ選挙区の新進党幹部船田元と新党構想を打ち上げる。船田との新党作りは挫折したが、横路、簗瀬、菅直人、弟の邦夫と共に旧民主党を結党。「排除の論理」で武村と袂を分かつ[11]。
民主党では幹事長代理を経て、1999年9月の民主党代表選挙に勝利。公約として正面から憲法改正を掲げて話題となった。2000年6月の衆院選、2001年7月の参院選など、国政選挙の度に党勢を拡大させたが、2002年12月統一補選での惨敗と自由党との統一会派騒動をめぐる党内混乱の責任を取る形で代表を辞任。
その後も、民主党内で最大派閥(民主党は「派閥」とは表現せず「グループ」としている)「鳩山グループ」(政権公約を実現する会)をひきいて、憲法問題や北朝鮮による日本人拉致問題などについて積極的に発言するなど一定の影響力を維持している。
2005年9月11日投開票の第44回衆議院議員総選挙で民主党が敗北したことを受けての代表選挙では、当初、小沢一郎、菅直人らと後継代表の一本化を図るが、中堅・若手の代表格である前原誠司が立候補を表明したため水泡に帰した。9月17日発足の前原執行部で幹事長に就任。
2006年2月に発生した堀江メール問題では、当時幹事長にも関わらず、ことの発端となったメールに関し、永田・前原両議員から事前にほとんど何の相談も受けていなかったとされる。3月、前原執行部が総辞職すると幹事長を引責辞任することを表明するが、同年4月7日に行なわれた前原誠司民主党代表辞任に伴う代表選で小沢一郎が当選すると、幹事長に留任した。新潟県中越沖地震発生当時、新潟市内での演説を予定していたが、高崎駅で下車して、自動車で柏崎市入りした。党新潟県中越沖地震対策本部長に就任。
2007年7月の参議院選挙大勝を受けての党役員人事で引き続き、党幹事長に留任。
2009年5月、小沢一郎代表の辞任を受け、かねてからの主張どおり党幹事長を辞職。その後の党代表選挙で岡田克也を破り、代表に就任。
2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙にて、民主党は単独政党としては史上最多の308議席を獲得。
2009年9月16日、衆参両院の首班指名選挙を経て、第93代内閣総理大臣に就任。戦後の歴代内閣総理大臣としては、初めての大卒かつ理系出身の内閣総理大臣となった[12]。2010年6月2日、民主党両院議員総会での発言を求め、 民主党代表および内閣総理大臣からの職を退くとした辞意を表明[13]。同年6月8日、 歴代の内閣総理大臣に倣わず内閣記者会を介す公式とされる国民向け退任会見を行わず内閣総理大臣の任を終えた[14]。
「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー#友愛の政治思想」も参照
「リベラルは愛であり、この愛は友愛である」と、祖父鳩山一郎が好んで用いた友愛という言葉をリベラルの根底においている。[15]。
鳩山由紀夫の祖父、鳩山一郎は、第二次世界大戦終結後、戦前の統帥権干犯問題の責任を問われて公職追放され、追放解除目前の1951年には脳梗塞で倒れ、不運な状態が続いたことから世間の同情を集めていたが、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と出会い、その友愛思想に感銘を受けて、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯のドイツ語の著作『Totaler Staat, totaler Mensch』(1937年) の英訳書『The Totalitarian State Against Man』(1938年) を『自由と人生』(1952年)と題して自ら翻訳出版した[16]。翌年、友愛青年同志会(現財団法人日本友愛青年協会)を結成する。
鳩山も自身の祖父の友愛思想とクーデンホーフ=カレルギーの友愛思想を政治活動の基本とし[15]、鳩山友愛塾など友愛の名前がついた組織、団体などを設立している。
鳩山は1996年に『論座』へ寄稿した論文「わがリベラル友愛革命」で、自己の尊厳を高めることに最大の努力を払う、自己を高めて初めて他者に優しく振る舞うことができる、自愛が利他を生む、意見を異にしてもそれを許容し、品格を信頼し友情を結ぶことができるという自己の尊厳の尊重が友愛精神の本質だと説いている[17]。そして、個を基本にし、党議拘束から解放された個の自由による連合、リベラルを友愛、すなわち、自己の尊厳の尊重と解した「リベラル合同」を成し遂げると主張している[18]。 キリスト教系の政財官界人の親睦会「インターナショナル・VIP・クラブ」で講師を務めているが、自らは新興宗教崇教真光の信徒である。
アメリカ追従を外交の柱とした小泉純一郎・元総理とは大きく異なり、全方位外交を実践。近隣諸国との相互理解を深めつつ、対等な日米関係を目指す安定した友愛外交を展開する。
内政においても事業仕分けにより、自民党政権時代には決して為し得なかった分野での金銭の無駄遣いにメスを入れた。
新憲法制定議員同盟顧問を務め、憲法改正を推進している。2000年には「2年で改正試案を各党が出して、速やかに憲法改正の結論をつけよう」と呼びかけ[19]、自らも憲法試案を作成した。この改正案は鳩山の公式サイトで公開している[20]。
「
『月刊現代』2004年7月号に、「私の憲法改正試案いまこそ『女帝』容認のとき」を寄稿した。同年5月4日の長野県の講演では、「皇位、皇統に属する男子又は女子が継承する」との条文を新たに盛り込むべきだと述べた。また、2005年11月18日の記者会見で、政府の「皇室典範に関する有識者会議」が出した女系天皇容認方針に寛仁親王が異論を唱える見解を示したことについて、「女系天皇に慎重な立場ということは似ている」と同調する考えを表明した。「女性天皇は当然、あってしかるべきだし、歴史的にもあるが、女系天皇まで容認すれば、日本の歴史、伝統からみると大変大きな変化であり、慎重に議論することが重要だ」と述べた。
詳細は「天皇特例会見」を参照
2009年11月26日、外務省は12月15日を予定とする天皇と習近平中華人民共和国副主席との会見を宮内庁に申請した。宮内庁側は、外務省に対し、(天皇の体調への負担と相手国への公平性の観点から)天皇と外国要人との会見は1ヶ月前に申請する(「1ヶ月ルール」)ことを求めており、実際の申請が1ヶ月を切っていたためこれを断った[21]が、鳩山由紀夫内閣の平野博文内閣官房長官は、12月7日・12月10日の両日「首相の指示。日中関係の重要性にかんがみて」と繰り返し要請した[21]。12月11日、羽毛田信吾宮内庁長官は記者会見で、「政治的利用じゃないかといわれれば、そうかなという気もする」、「現憲法下の天皇のお務めのあり方や役割といった基本的なことがらにかかわることだ」、「政治的重要性などに関わらず、平等に外国と向き合うのが陛下のなさり方」、「悲しいこと。今後二度とあってほしくないというのが私の切なる願いだ」と述べた[21]。同日、鳩山は、記者団に対して、「1ヶ月を数日間切ればしゃくし定規でダメだということで、果たして本当に諸外国との国際的な親善の意味で正しいのか」、「政治利用にはあたらない」と述べた[22][21]。なお「1ヶ月ルール」は法律で定められたものではない。
「友愛外交」も参照
日米同盟を堅持しつつ、対等な日米関係を目指すなど、アメリカ依存からの脱却を模索している。 産経新聞によると、在日米軍再編交渉の責任者を務めていたリチャード・ローレス元国防副次官が安倍晋三元首相に対し、「アメリカ政府高官の間では鳩山を“日本の盧武鉉”と評している」と述べた(安倍によれば、ローレスは理由として同盟国の指導者としては扱えない・戦略的な話をすることが出来ない・情報を共有することができないの3点を挙げたという)[26]。同記事を執筆した阿比留瑠比は「基地問題などの対米関係の見直しを主張した韓国の盧武鉉前大統領と言動が重なる」と述べている[26]。韓国中央日報でも盧武鉉政権の初期に酷似しているとして「鳩山政権の盧武鉉式政治実験の成敗が注目される」と報じている[27]。
鳩山は『Voice』(2009年9月号)に寄稿した論文[2] のなかで、アメリカの経済政策や日米関係の現状を批判した[28][29][27]。『ニューヨーク・タイムズ』が8月27日に論文の抄訳を掲載した[28]ところ、アメリカや台湾で「反米的」と報じられた[30][31][32][33][34][28]。
『産経新聞』はアメリカ国内の反応について、「専門家の間では論文に対して強い失望と警戒感をいだいている」と報じた[35]。鳩山は後日、「反米ではない」と述べている[36]。
2007年11月23日、民主党の幹事長だった鳩山由紀夫はダライ・ラマ14世と会談し、ダライ・ラマ14世が、チベット問題について「高度な自治を求め、右手を中国政府に差し出しているが何も得られていない。左手で欧米や日本に協力を求めたい」と述べたのに対し、「力強くサポートさせていただく」と応えた。[76]、2009年9月21日、内閣総理大臣に就任した鳩山は中国の胡錦濤国家主席と会談し、チベット問題は「中国の内政の問題と理解している」と述べ、内政問題という認識を示した上で、「それだけに対話を通じて見事に解決することを期待したい」として、中国側による平和的な解決を期待した[77]。
1997年、北朝鮮による日本人拉致問題について、「困っているときに、拉致事件などの問題が解決しないと援助できないというのでは、彼ら(北朝鮮)の気持ちは和らげることができないのではないか」と前橋市で演説し、貧困・飢饉に苦しむ北朝鮮への食糧支援を訴えた。
もっとも、民主党代表だった2002年9月の小泉訪朝に際しては、「急ぎ過ぎて国益を損なった」「拉致問題や不審船問題についての追及が甘い」と厳しく批判。代表退任後の2003年には民主党拉致問題対策本部長に就任し、ブルーリボンを常に胸に付て拉致問題について積極的に発言するなどしていた。
2006年2月、拉致問題を解決するためという名目で、独立の生計を営むことができない脱北者に対して特別永住権を与え、その定住を支援するため、居住の安定の確保、就業の支援、日本語教育等に関し必要な施策を講ずるという内容の北朝鮮人権法案を提出した[86]。
2007年4月、韓国で開催された「平和と共存のための北東アジア指導者会議」で、韓国の識者から「6カ国協議では、拉致問題と北朝鮮の核開発問題を切り離してほしい」という要望に同意するが、拉致問題に関して日本人は理屈より感情が先んじている現実があるので、ナショナリズムを抑えるために韓国の協力が必要であるとスピーチした[87]。
1999年2月26日の千葉市内での講演では、「あと数分とか数秒で日本を攻撃するミサイルが発射されるという状況が自明のとき、撃たれるままで手をこまねいていなければならないかというと、必ずしも憲法ではそうではない。自衛のために行動することは禁止されていないと理解している」と憲法上では先制攻撃が許される場合もありうるとの見方を示している[88]。ただし2009年5月27日の新聞記者との会見では、「相手の基地の先行的な、こちらでたたきのめしていいなんていう議論も、まさに(核武装議論と)同じように、私は慎むべき議論だと、そのように考えております」と北朝鮮を過度に刺激しない姿勢も示し、外交感覚の良さを見せた。[89]。
2000年12月7日、民主党護憲派の「21世紀の民主党を考える会」の会合に講師として招かれ、「平和執行型の国連平和維持活動(PKO)にも日本は参加しなければならない。そのとき、憲法が障害になるなら変えればいい」と述べた[94] 。
国会運営の姿勢としては「強行採決は国民を愚弄する行為」と否定している[110]。
鈴木宗男衆議院議員を「ODAで私腹を肥やし、公共事業で私腹を肥やし、さらに北方領土問題でも私腹を肥やしていた。このような政治家が日本にいること自体が実に恥ずかしい」と名指しで非難しており[111]、鈴木がいわゆるムネオハウス問題で自民党を離党すると「比例代表選出議員は離党したら議員を辞職すべき」と議員辞職を求めた[112]。
「鳩山イニシアチブ」も参照
環境問題については地球温暖化防止に強い関心を見せており、日本の2020年までの温室効果ガスの削減目標(中期目標)について、「1990年比25%削減を目指す」ことを国際社会に約束した。この構想を鳩山は「鳩山イニシアチブ」と名づけている。
2010年4月25日、群馬県大泉町の視察後の記者会見で「将来的に、この国をもっと開かれた国にしていかなければならない。日本に住む外国人の医療や教育の問題の改善に向け、政府として対策を検討したい」という考えを示した [113]。
「外国人参政権#鳩山内閣総理大臣の見解」も参照
公式サイトで、「日本は他の国々に比べて外国人の比率がかなり低いこと自体が大いに問題である。これは外国人にとって、日本は住みにくい国であることを物語っている」と見解を示しており[114]、「私などは、定住外国人に国政参政権を与えることをも真剣に考えてもよいのではないかと思っている」との考えを表明している[114]。
2000年1月、朝鮮総連の徐萬述(ソ・マンスル)第1副議長から「地方参政権法案」に対し、民主党が慎重に対処するよう要請されると、党独自に訪朝団を派遣意向を示すなど日朝関係改善に努力するとともに、「参政権」問題に対する朝鮮政府と総聯の立場を検討し、在日朝鮮人の権利問題解決へ方途を模索していくと答えた[115]。
2001年の第151回国会における首相施政方針演説に対する代表質問で、21世紀は「共生の世紀」、「人権の世紀」であり、そのために、永住外国人に地方参政権を与えるべきであると訴えた[116]。
2004年4月14日、在日本大韓民国民団から「永住外国人への地方選挙権付与法案」の早期成立を求める陳情を受けると、「地方参政権付与は当然だと承知している」と表明した[117]。
2008年の第169回国会における首相施政方針演説に対する代表質問で、代表質問で「永住外国人の地方参政権はすでに韓国に先を越されたではないか」と述べ、日本も早く実現すべきとの姿勢を強調した。これに対して、福田康夫首相は「永住外国人に対する地方参政権付与の問題について、韓国の状況は承知しておりますが、この問題は、我が国制度の根幹にかかわる重要な問題でもございまして、各党各会派において議論を進めていただきたいと考えております」と返答した[118]。
2009年1月9日、在日本大韓民国民団の新年会にて、在日韓国人への参政権について「もっと真剣に取り組む1年に」と約束した。
2009年4月17日、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない[119][120]」「出生率の問題を考えてみても、もっと海外に心を開くということを行わないと、世界に向けても尊敬される日本にならないし、日本の国土を守ることもできなくなる。ですから、私は定住外国人の参政権は、当然付与されるべきだと、そう思っています」などとニコニコ動画で発言する[120]。4月24日の民主党本部での記者会見では改めて「愛のテーマだ。地方での参政権は付与されてしかるべきではないか」と述べている[121]。
2009年4月18日、ニコニコ動画の「ニコニコ討論会」に出演し、「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから、もっと多くの方々に参加をしてもらえるような、喜んでもらえるような、そんな土壌にしなきゃダメですよ」「日本人が世界の中で一番自信を持ってるはずなのに、なんで他国の人たちが地方参政権ひとつ持つことを許せないのかと。少なく とも韓国はもう認めている訳ですよね。彼らが認めていて我々が認めないというのは、非常 恥ずかしいと思いますね、私は」「私は定住外国人の参政権ぐらい当然付与されるべきだと、そう思っています」と発言している[122][121]。
2009年5月31日、それまで政権公約に明記していた在日外国人への地方参政権付与について、「個人的には前向きに考えるべきだと思うが、党内で結論が出ている状況ではない」と述べ、次期衆院選を控え、党内の対立を深めることは得策ではないと判断、党内の異論を踏まえマニフェスト記載を見送る考えを示した。これにより、同党のこの問題に関するマニフェスト記載が党内で結論として出されたものではなかったことを明らかにした[123]。
2010年1月20日 民主党大会において在日外国人の地方参政権付与について触れ、「在日外国人」を「在日韓国人」と言い間違えた。また、政府として法案提出の検討と、そのための連立与党内の合意形成を目指すこととした [124]。
民主党幹事長時代の2008年6月26日、オーストラリア外相・スティーヴン・スミス(en)との会談で、「実はけさ、家内の手料理にクジラが出た。私はクジラを食べない主義なので拒否したが、日本の食卓ではクジラは好かれている現実がある」と述べた[125]。首相就任後の2009年10月26日におこなわれたオランダ首相・ヤン・ペーター・バルケネンデとの会談では、「私はクジラ肉は大嫌いだ」と明言している[126]。一方で、日本の調査捕鯨に対する環境団体の妨害行為を批判し[125]、捕鯨反対国に対し、妨害活動を行っている活動家について対処するよう要請している[126]。
2007年11月8日、「次の衆院選で政権を取ることがかなわなかったら、自民党との大連立の話が復活する可能性は出てくる」と述べ、次期衆院選に敗北した場合にも民主党が政権に参加する可能性があることを表明した[127]。さらに、11月13日の記者会見では、「次期衆院選で民主党が第一党になった場合、自民党の一部を取り込んだ形で連立政権を組む」と表明し、総選挙に勝利した場合に自民党と連立することを明らかにした。
2007年12月14日、大阪府知事選について、民主党が阪大大学院工学研究科教授の熊谷貞俊の擁立を決定したことに関連して、「一番反対していた奥さまが“あの相手にだけは大阪を任せられない。ここで出なければ男じゃない”と最後は強く推したと聞いている」と述べた。しかし、当の夫人は「そんなこといってません。めっそうもない」と否定している[128]。
2008年1月13日、小沢一郎が11日の衆議院本会議を退席し、補給支援特措法の採決を棄権したことに対し、当初、「小沢氏は大阪府知事選の応援に向かった。(再可決という)暴挙に対して、公務として大阪府民に訴えかけている」と釈明したが、当の小沢は大阪府知事選では再可決について全く触れなかった。また、「国会議員としての責務を果たすべきだった」と批判したが、当の小沢には「国民にも民主党にも大事ではない」と切って捨てられた形になっている。大阪府知事選後に、推薦候補が敗北した原因の一つとして小沢の欠席を指摘するも、小沢からは、「幹事長が何をいったか知らないが、府知事選に影響したとは思っていない」と反論され、党首脳部で意思疎通が欠如しているとの印象を与えた。
2008年2月10日、民主党非主流派の仙谷由人、枝野幸男、野田佳彦、蓮舫、小沢鋭仁、土肥隆一や自民党の山崎拓、加藤紘一ら反小沢色の強い議員と訪韓した。訪韓前の8日、(反小沢との批判に対し)「全く気にすることのない行動だ」と否定するとともに、「小沢代表のもとで政権交代を担う」と述べたが、9月の代表選までに政権交代できなかった場合、「代表選では選挙を行って次のステップに進むのも必要なプロセスだと考えている」と反小沢の対抗馬として出馬する可能性があることを示唆した。
2008年8月26日、ラジオ番組で小沢の無投票再選を評し、「小沢代表の顔を見たら怖い、相手になった場合、何をされるか分からないと感じてしまう方が多いかもしれない」のように述べた[129]。
2009年3月3日、小沢の公設秘書の逮捕をうけて、「小沢氏は、すべてのお金の出し入れを明らかにしている。問題はない。陰謀だ」と政府、与党、検察サイドによる陰謀であるとした。3月8日に福島で開催された集会でも、支出を原則公開していることから「小沢代表は最もクリーンな政治家」と強調した[130]。
2009年3月29日、小沢の進退に関連し、「小沢氏の下での幹事長だ。殉じるときは殉じる」と述べ、小沢辞任の場合は自らも連帯責任を取って幹事長を退く考えを示した。また、後任として自らが代表に就く可能性については「そんなふうにはいかない」と否定した。が、同年5月に代表就任している[131]。
2009年3月18日、東京都内での講演で、「世襲禁止は大きなテーマ。マニフェストに採り入れたい」と語る。
2009年6月6日、日本郵政の人事問題に関連して、実弟の鳩山邦夫総務相(当時)に対して、「民主党に協力して加わるなら、早く閣僚を辞めて新しい道を進めたらいかがか」と述べ、自民党離党と民主党への合流を呼びかけた[132]。邦夫がこの問題で事実上更迭され、離党を含めた去就が注目されるようになった6月11日、「西南戦争に決起し、政府に反旗を翻した時の西郷隆盛の言葉を引用した。弟はその覚悟を持っていると当然理解している」と述べ、理解を示した一方で、連携について、「私どもは政権交代を目指している。念頭に置いてはいない」と否定した[133]。
小泉改革について、当初は、2001年6月の小泉純一郎内閣総理大臣(当時)との党首討論の場において、「私は民主党代表だが、首相が構造改革を断行する気持ちで努力することを評価したい」と発言し、さらに、「ヤジを飛ばしている方々は首相の改革路線の足を引っ張っている抵抗勢力なんですよ。私たちは背中を押して差し上げようとしている改革勢力。志半ばで倒れたら民主党があなたの骨を拾ってあげます!」と述べ評価したが[138]、その後、2009年5月15日、民主党代表選挙の前日に開かれた記者クラブ主催の公開討論会において、鳩山は対立候補の岡田克也に対し、「小泉構造改革というものをどのように考えておられるのか。例えば、郵政民営化、岡田さんのとき、代表のときにその戦い(2005年の郵政選挙)がございました。民主党は敗れ去りましたが、しかし、結果として地域が崩壊の憂き目になっております。その新自由主義というものの総括というものをお願いしたい」と述べ、批判的立場から小泉構造改革の総括を求めた[139]。
2001年2月5日の衆議院本会議での代表質問では、「五五年体制のいわば政治的遺物であり、官邸が機密費として持つ必要性はなくなったのではありませんか。」と発言し、官房機密費は必要性に疑問を投げかけたが[140]、2009年11月19日には、記者団に対して「国益に資するために使わせていただく貴重な資金」と発言し、必要性を認めた[141]。
2007年2月9日、記者会見で、「マニフェストを作成する中で年金と消費税の議論を行うことが大事だ」と消費税増税に言及した。しかし、7月6日安倍晋三首相が前日夜のテレビ番組で、秋以降に消費税率引き上げも含めた抜本的税制改革の検討に入る考えを示したことが報じられると、「選挙が終われば消費税を上げるぞということが見え隠れしている」と批判した[142]。2009年5月15日、民主党代表選挙の前日に、消費税増税について『議論をすれば、「経済が厳しいときに何で消費税の議論をするんだ」という話になる。この4年の間に消費税を上げる議論をする必要はない』と議論を棚上げした[143]。
2008年10月17日、アフリカ・ソマリア沖の海賊対策としての自衛隊の派遣について、衆院テロ防止特別委員会において民主党の長島昭久議員が、「海上保安庁の巡視艇がソマリア沖の海賊対策に当たるのは困難」という趣旨の政府答弁を引き出したうえで、「自衛隊艦艇のエスコート(護衛)は海賊対策にかなり効果がある」と提案した[144][145]ことを受けて、翌18日の会見で、「政権交代の暁に、積極的、前向きに検討する」と明言したが、[146]。2009年1月23日、アフリカ・ソマリア沖の海賊対策として海上自衛隊護衛艦を派遣するという政府方針に対して、「なぜ海上保安庁じゃだめなのか、なぜ自衛隊なのかというところが、判然としていない」、「3党が協力して麻生政権を追い込むため、海賊対策でもできる限り一致するように努力したい」と発言した[147]。なお、2009年7月23日に民主党が発表した2009年版政策集には、アフリカ・ソマリア沖などでの海賊対策について「一義的に海上保安庁の責務」としながらも、「海保のみでは対応が困難な場合は、シビリアンコントロールを徹底する仕組みを整えた上で、海賊発生地域に自衛隊を派遣することも認める」と明記されている[148]。
1999年10月27日、東京都内で行われた講演で、先に核武装をめぐる発言で辞任した西村眞悟元防衛政務次官の問題に絡んで、「核武装してもいいかどうかを国会で検討したらどうかと言った瞬間にクビを切られるとなると、国会で核をもつべきかどうかなんて議論がなされなくなる。議題に乗せることすらしてはいけないという発想もいかがなものか」と発言していたが[149]、2006年10月15日には、自由民主党政務調査会長だった中川昭一が非核三原則を見直すかどうか議論する必要があるとの発言を行ったことに対して、「目には目をみたいな話。北朝鮮が核を持ったら日本も持つという発想は、世界全体に核が拡散してしまう論理になる。日本は唯一の被爆国として核を持たずに、世界の核廃絶に向けリーダーシップを発揮しなければならない」と批判[150]、さらに11月3日には、核保有の議論の容認発言を行った麻生太郎外務大臣に対して、「核を何らかの形で国の安全保障に結びつけようと議論することに大変憤っている」と批判した上で、「唯一の被爆国として、世界中から核をなくす運動のトップリーダーとして動かなければならない日本の外相がこういう発言をすることに心から怒りを持つ」と述べ、麻生の外務大臣罷免を要求する考えを示し、核保有に関する議論はすべ気ではないという考えを示した[151]。
2004年9月15日、アパグループ代表の元谷外志雄邸での「日本を語るワインの会」に夫人を連れて参加。同席した田母神俊雄、大島信三と元谷夫妻の6人で核武装に関する議論などを行っていた[152][153]。鳩山と同席者たちは邸宅内外で記念写真を撮影している[152]。鳩山はこの件に関して事実関係を認めつつも、「失礼ながら余りにも私の思想とかけ離れた話をされていたので、途中でご無礼いたしたことを思い出します」と自身の2008年11月5日付けのメールマガジンで述べている[154]。また、「田母神航空幕僚長が、かつて日本が犯してしまった侵略行為と植民地支配を正当化する論文を発表して、更迭されたのは当然として、定年退職にしてしまったことは許せません。退職金は6千万円とも言われています。懲戒処分を受けるべき者が、6千万円貰って退職するとは言語道断です。このような処理をした政府の責任を厳しく追及せねばなりません」と田母神を批判している[154]。田母神は鳩山の批判に対して、「ウソを言うのもたいがいにしてもらいたい。鳩山はあの日、最後まで会合に出席して楽しんでいた。彼は私や元谷代表らと一緒に、仲良く記念撮影までしている。自分がつらい立場になれば、平気で人を裏切る。そういう人間は、今後も何かあったときに必ず人を裏切ることでしょう。鳩山由紀夫は、まったく信用ならない人物です」と述べている[155]。しかし田母神の主張する強硬外交では、日本の外交は破綻するとの意見もあり、田母神自身の発言に関しても疑問符がつく。
2010年3月5日には非核三原則を堅持する意向を示している[156]
2009年2月9日に行われた鳩山の講演で、政権交代が行われたときの官僚の人事について、「(各省庁の)局長クラス以上には辞表を提出していただき、民主党が考えている政策を遂行してくれるかどうかを確かめたい」と述べたが[157]、2009年6月30日、党本部における記者団の質問に対し、「法的には難しい話だ。辞表という形に必ずしもならない」と以前の発言を訂正した[158]。
鳩山首相側から資金提供を受けた議員(単位万円) 「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書(07-08年)に基づく[196]。
鳩山の永田町にある個人事務所の賃料を政治資金収支報告書に記載していなかったことが2009年10月24日に明らかにされた[197]。問題とされている個人事務所の賃料は、政治家個人が資金管理団体に献金できる限度額(年間1000万円)を超えていると試算されている[197][198]が、個人事務所側は2005年から2008年にかけて事務所費として収支報告書に「年間約120万から約380万円」と記載し、賃料については鳩山個人が支払っているとして記載していないという[198]。鳩山は、「個人事務所として使っているのでいちいち記載する義務はないと理解している。法的に問題はないという認識だ」と述べた[199]。
また、鳩山の母親が所有する北海道室蘭市内のビルを、相場の5分の1以下となる月10万円の賃料で借りていたことが2009年10月1日に明らかにされた。相場との差額は寄付として政治資金収支報告書に記載する必要があり、年間で600万円以上の差額が生じているが政治資金報告書には記載していない[200]。
2009年11月2日、鳩山が株の売却益約7200万円を確定申告していないことが発覚した。鳩山側はこの件について、「手違いがあった」と不作為的なものであると主張しているが、「手違い」の具体的内容については回答を避けている[201]。11月10日、鳩山は衆院に資産訂正届を届けた。その結果、2日に明らかになった記載漏れ以外にも膨大な資産についての記載がもれていたことが明らかとなった。訂正総額は合計5億円を超えている[202][203]。11月11日、鳩山は、「恵まれた家庭に育ったため、資産管理が極めてずさんだった」と説明した。自民党では大島理森幹事長が「脱税の疑いがある」と批判し[204]、棚橋泰文は2009年11月17日の衆院法務委員会において鳩山を「脱税総理」と呼び、委員会が一時紛糾している[205]。
他に、鳩山由紀夫の関連政治団体がビル1棟を相場より安い値段で借りてきたことが明らかとなったが、鳩山は問題ないとの認識を示している[206]。
幸夫人との結婚について「(他)人の嫁さんで、子供はいませんでしたけどね、日本料理屋で働いていたんです」と述べ、幸夫人が自身と不倫の末に結婚したことを認め、「普通の人は未婚の女性の中から相手を選びますね。私は全ての女性の中から選んでいるんですよね」と自身の独自の倫理観を披露した[240]。
結婚の経緯の詳細は鳩山幸#結婚を参照
豊富な資金力や祖父以来の人脈を背景にして、1990年代の政界再編期に一貫して中心にあった。民主党の結党に際しては多くの資金を提供したとされる。また、小泉内閣誕生から政権初期にかけて民主党代表を務めていたため、小泉の自民党内牽制カードとして、鳩山民主党との連携が噂された。
田園調布に自宅、軽井沢に別荘所有など、2006年2月に公開された議員資産報告書によると、鳩山由紀夫の資産は、これら不動産の他、預貯金が約12.8億円、所有株式はブリヂストン株350万株(2006年8月末換算で約59.5億円)を中心に15銘柄を所有。これら資産総額では90億円を下回ることはないとみられている程の政界きっての大資産家である[241][8]。
東京・音羽の鳩山会館で大規模な社交パーティを開くなど政界きっての資産家としても有名だが、本人は「庶民的な感覚を持ち合わせる」と自称している。2006年4月16日、衆院千葉7区補選で太田和美候補(当時)の選挙応援の際には、同候補の「負け組ゼロへ」をキャッチコピーに選挙カーにはほとんど乗らず、他の民主党幹部と共に自転車で選挙区内を回り地元出身をアピールする戦術に同調、同選挙のために太田陣営が6800円で購入した「新車」による自転車遊説行脚を敢行し「私も自転車に乗れるんです」と庶民感覚を演出した。なお、本人は自転車に乗るのは「2、3年ぶり」とも発言をしていた[242]。
政権交代を実現する会(鳩山グループ)を率いる。政策的な結びつきよりも鳩山の資金力を頼りにする議員が多く、結束力は今一つである。結党以来最大派閥だったが、郵政選挙大敗によって多くの所属議員が落選し、参院選の大勝で絶対的な発言力を手にした小沢代表のグループに、新人議員が多く加入したため、最大派閥の座を同グループに明け渡した。
毎日のように落語を聞いてから寝るという大の落語ファン。東京では立川志の輔。上方落語では桂三枝。2009年8月の衆議院選挙では大阪市北区の寄席「天満天神繁昌亭」で遊説している[243]。
2005年12月28日に出版された、ビブロス社刊『オタクエリート No.1』の表紙モデルを務めた。同誌には、「民主党幹事長・鳩山由紀夫が語るニッポンの漫画・アニメ ~文化・産業としてのオタクコンテンツ~」と題されたロングインタビューが掲載され、その中で鳩山は『三国志』を取り上げ、漫画の効用を説いた。また、大学時代には『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』だけでなく、ガロまで読んでいたことを語っている。好きな漫画は前谷惟光の『ロボット三等兵』と桂正和の恋愛漫画『I"s』をあげている。『ロボット三等兵』を「名著なんだよ、名著」と褒め称え、『I"s』については毎週愛読していたといい、「淡いロマンがよくってね」と恋愛観も明かしていた[244]。
2001年ころに開設したYahoo!チャットにおけるプロフィールで、ネット上の好きなサイトの一つに2ちゃんねるをあげており、自身も2ちゃんねらーであることを公言している[245]。しかも、時期的に、2ちゃんねる初期からの筋金入りのユーザーではないかと指摘されている。2ちゃんねるでは、2009年9月29日ころから、「鳩山首相、『好きなサイト』に『2ちゃんねる』挙げていた」と題するスレッドが複数立ち、「祭り」に発展。そこには、「鳩山さんいるんでしょ、出てきなよ」「どうせ宇宙人と交信しようとか、そういうオカルトの板に住んでるんだろ」と書き込まれているという[246]。 なお、同じく2ちゃんねらーであることを公言している政治家は他にも麻生太郎や加藤紘一らがいる。
自身の公式サイトのプロフィールでTVドラマに感化されやすいとし、中山美穂、常盤貴子のファンであることを公言している[247]。
鳩山由紀夫・幸夫妻は、民主党代表就任以来、韓国人俳優イ・ソジンと頻繁に会談・会食を行っている。
鈴木喜三郎 ┃ ┏━━━━カヅ ┃ 井上 多門 ┃ 石橋正二郎━━━━安子 ┃ ┃ ┃ ┏━━━━和子 ┃ ┃ ┃ 鳩山十右衛門博房━━鳩山和夫 ┃ ┣━━━╋━鳩山由紀夫 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━鳩山紀一郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 幸 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━╋━鳩山 一郎 ┃ ┗━鳩山 邦夫 ┏━鳩山 太郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 春子 ┃ ┣━┳━━鳩山威一郎 ┣━━╋━━━━華子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 薫 ┃ 渡邉 曉雄 エミリー ┗━鳩山 二郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━┳━渡邉 康雄 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━信子 ┗━渡邉規久雄 ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━玲子 ┃ ┃ ┗━鳩山 秀夫 ┃ ┃ ┃ ┣━━鳩山 道夫 ┃ 菊池大麓━━━━━千代子
小山内 建(玄洋) 横松 和夫(立松和平) ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━禮子 ┣━━┳━━横松 心平(林心平) ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━━━━錞 ┣━小山内 薫 ┏━小山内 徹━━━━━美千絵 ┃ ┏山中 崇史 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━╋━小山内 宏 ┃ ┗山中 聡 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 中川登女子 ┃ 富子 ┗━━━━━桃子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 岡田三郎助 ┗━小栗 喬(市川扇升) ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━━━八千代 ┃ 小栗 信━┫ ┃ 蘆原 信之 ┃ ┃ ┏━蘆原 敏信(英了) ┃ ┣━━┫ ┃ 藤田 嗣章 ┃ ┗━蘆原 義信 ┃ ┃ ┏━━━━キク ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━蘆原 太郎 ┃ ┣━━━━╋━藤田 嗣治 ┃ ┃ ┃ ┃ 初子 ┃ ┃ ┗━藤田 嗣雄 ┏木戸 孝允 ┗━━━━政 ┃ ┃ ┏━━━━モト ┗━━━治子 児玉源太郎━━━┫ ┃ ┗━━━━ツル ┣━━━━木戸 孝正 ┃ 都留 重人 ┃ ┃ ┏━木戸 幸一 ┃ 来原 良蔵 ┣━━━━┫ ┏━━━━正子 ┃ ┗━和田 小六━┫ ┏━━━━寿栄 ┗━和田 昭允 ┃ 山尾 庸三━╋━山尾 三郎 ┃ ┗━━━━千代 ┃ ┣━━━━┳━広沢 真吾 ┃ ┃ 広沢 真臣━━━広沢金次郎 ┗━━━━直子 ┃ 池田吾一郎━━━━━池田 勇人 ┏━━━━直子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━╋━━━━紀子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 池田 行彦 満枝 ┃ ┃ ┗━━━━祥子 ┃ ┏━石橋 進一━━━石橋 慶一 ┃ ┃ ┏━鳩山由紀夫 ┃ 鳩山 一郎━━━鳩山威一郎 ┃ ┃ 石橋徳次郎━━━┫ ┃ ┃ ┣━━━━━鳩山紀一郎 ┃ ┣━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ 幸 ┃ ┏━━━━安子 ┃ ┗━石橋正二郎━┫ ┗━鳩山 邦夫 ┗━━━━啓子 ┃ ┏━郷 和道 ┣━━┫ ┃ ┗━━━━悦子 郷 隆三郎━━━郷 裕弘 ┃ ┃ 伊地知純正━━━━━━庸子 ┃ ┃ ┏━宮澤 裕夫 ┣━━┫ ┃ ┗━━━━啓子 ┏━宮澤 喜一 ┃ ┃ ┃ 宮澤 鹿吉━━━━━宮澤 裕 ┃ クリストファー・ラフルア ┃ ┃ ┣━━╋━宮澤 弘━━━宮澤 洋一 ┃ ┃ ┏━━━━こと ┃ ┃ ┃ ┃ 斎藤 樹 ┗━宮澤 泰 ┃ ┃ ┃ ┏━━━━その ┣━━━━てい ┣━━┫ ┃ ┃ ┗━━━━ゆり 小川 平吉━━━┫ 児島喜久雄━━━━━━汪子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━吉國 二郎━━━吉國 真一 ┃ 吉國 兼三━┫ ┃ ┗━吉國 一郎 ┃ ┗━小川 一平 ┏━小川 元 ┏━岩崎 久弥 ┃ ┃ ┃ ┣━━╋━━━━幸子 ┃ ┃ ┃ ┃ 杉本竹之助 ┏━━━━俊子 ┗━小川 丈夫 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ とみ 岩崎弥太郎━┫ ┣━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━美保 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 須美 ┗━杉本 甫 八嶋 廷 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━佳栄子 ┗━岩崎 康弥 ┃ ┃ ┏━━━和歌子 松山 棟庵 ┣━━━━┫ ┃ ┃ ┗━岩崎精一郎 ┏━岩崎 泰頴 ┣━━━━━━━とし ┃ ┃ ┃ ┣━━┫ 鎮西 清高 乃婦 ┃ ┃ ┃ 酒井 忠克━━━━━━━小枝子 ┗━━━由利子
若い頃は美声の持ち主として知られた。1988年、シングルレコード「Take HEART〜翔びたて平和の鳩よ〜」をテイチクレコードに製造を委託した自主製作盤として発表した。レコードB面は同じ曲のコーラス版。2009年10月30日にCDとして再発売された[4]。現在ではカラオケ(UGA)でも配信されている。
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 麻生太郎 |
内閣総理大臣 第93代:2009年 - 2010年 |
次代: 菅直人 |
| 先代: 近藤元次 |
内閣官房副長官(政務担当) 1993年 - 1994年 |
次代: 北村直人 |
| 党職 | ||
| 先代: 菅直人 小沢一郎 |
民主党代表 第2代 : 1999年 - 2002年 第7代 : 2009年 - 2010年 |
次代: 菅直人 現職 |
| 先代: 川端達夫 |
民主党幹事長 第7代:2005年 - 2009年 |
次代: 岡田克也 |
| 先代: 結成 |
(旧)民主党代表 初代 : 1996年 - 1997年 菅直人との共同代表制 |
次代: 菅直人 |
| 先代: 新設 |
(旧)民主党幹事長 初代 : 1997年 - 1998年 |
次代: 民主党へ |
| 先代: 園田博之 |
新党さきがけ代表幹事 第2代 : 1994年 - 1996年 |
次代: 園田博之 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第92代 麻生太郎 |
第93代 2009年 - |
- - |
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