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インテルナツィオナーレ・ミラノ

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インテルナツィオナーレ・ミラノ
原語表記 Football Club Internazionale Milano
愛称 Nerazzurri, La Beneamata, Il Biscione
クラブカラー 青と黒
創設年 1908年
所属リーグ レガ・カルチョ
所属ディビジョン Serie A, 1st
ホームタウン ミラノ
ホームスタジアム スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ
収容人数 85,847
代表者 マッシモ・モラッティ
監督 ジョゼ・モウリーニョ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
   サッカークラブPJ

インテルナツィオナーレ・ミラノFootball Club Internazionale Milano)は、イタリアミラノを本拠地とするサッカークラブ。

目次

概要

1908年創設。 略称はインテルインテル・ミラノインター・ミラン。クラブカラーからネラッズーロイタリア語で「黒(nero)と青(azzurro)」複数形はネラッズーリ(nerazzurri))の愛称で呼ばれる。

ユヴェントスACミランと並びイタリアを代表するクラブであり、ヨーロッパでも屈指のビッグクラブの1つ。中でも、同じ都市・同じスタジアムをホームとするACミランとは永遠のライバル関係にある。 またACミランは労働者階級から支持を集めているのに対し、インテル・ミラノは富裕層を中心に支持を集めているとされているが、現在ではミラノの一般市民のほとんどがACミランを応援していると言う光景はなくお互いに広い層から支持を集めている。

ユベントスとの対戦は「イタリアダービー(Derby d'Italia)」、ACミランとの対戦は「ミラノダービー(Derby di Milano)」と呼ばれ、国内外の関心を集めるビッグマッチとなっている。

なお、イタリアダービーは「一度も降格経験がない2チームだから」というのは俗説で、本当はイタリアの有名なジャーナリストのジャンニ・ブレラがインテルが65-66シーズンに10回目のスクデットを獲得してラ・ステッラを付けられる2番目のチームになったとき(ちなみにその当時ミランは8回のスクデットで10回目を獲得するのは78-79シーズンのこと)に「この常に優勝争いをしている2チームの対戦がイタリアのナショナルダービー」と言ったことから名付けられた。ちなみにこの当時はミランとボローニャも降格経験がなかった。(ミランは79-80、ボローニャは81-82シーズンが初降格)

また、1929年のセリエA(1部リーグ)開幕以来、現在まで一度もセリエB(2部リーグ)に降格したことが無いイタリア唯一のクラブである。 現在、セリエAをカルチョ・スキャンダルで逆転優勝した05-06シーズンから4連覇中。

歴史

1908年-20年代前半 -インテルの誕生~発展期-

前身はACミランと同じ「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ(Milan Cricket and Football Club)」だが、外国人選手の加入問題を巡ってクラブ内で対立が生じ、その反主流派(外国人選手の加入に積極的な一派)は1908年3月9日にミラノのレストラン“オロロージョ”にて会合を開き、ミランからの分離・独立を決める。チームカラーは青、黒、金と定め、ここに新たなクラブが誕生。 国籍を問わず世界中の選手に門戸を開く、という意味を込め、このクラブは「FCインテルナツィオナーレ」と命名された。

そして、設立より2年後の1909-10シーズンには当時無敵だったプロ・ヴェルチェッリを倒して初のスクデットを獲得し、1919-20シーズンにもリヴォルノを倒して2回目のスクデットを獲得する。

1920年代後半-40年代前半 -ベッピーノの登場と第1次黄金時代-

1920年代後半、ムッソリーニを党首とするファシスト党の影響はサッカー界にも及び、国粋主義を掲げるファシスト党にとってこのクラブ名と外国に対して寛容な精神はその思想に反するものだった。

ムッソリーニは1928年にインテルとUSミラネーゼ(Unione Sportiva Milanese)を合併させ、さらには翌年チーム名をアンブロシアーナ(Ambrosiana)に、ユニフォームをセント・ジョージ・クロスをモチーフとした赤十字デザインに変更させる。

しかし、この決定は当然ながら熱狂的なインテリスタの怒りを買った。そして、彼らの抗議により、1932年クラブ名はアンブロシアーナ・インテル(Ambrosiana-Inter)となり、ユニフォームも元に戻され、辛くも"INTER"の名と青と黒の縦縞の伝統は守られた。

その頃、インテルユースから超新星が誕生した。彼の名はジュゼッペ・メアッツァ。「ベッピーノ」という愛称で呼ばれたこの選手は、デビューシーズンの1928-29シーズンにいきなり得点王に輝く活躍をした。ドリブルが巧く、シュートも正確で、テクニックも抜群。パス能力にも優れ、さらに美男子だった彼は瞬く間にクラブのアイドルとなり、また中心選手となるのに時間はかからなかった。 翌1929-30、初の全国リーグ(セリエA)が開催され、得点王に輝いたメアッツァ(35-36、37-38シーズンにも得点王になった)の活躍もあり、アンブロシアーナ・インテルは初の全国リーグのチャンピオンに輝いた。 そして勢いは止まらず1937-38シーズンにも彼の活躍で4回目のスクデットを獲得、さらに翌シーズンには初のコッパ・イタリアを獲得した。 1939-40シーズンもメアッツァが病気により試合に出られなかったにもかかわらず、5回目のスクデットを獲得した。翌年メアッツァは408試合、287得点という偉大な記録(歴代最多得点)を残してクラブを去り(1946-47に復帰)、アンブロシアーナ・インテルの黄金時代は終焉した。

そして戦争が終わり、ファシスト政権が倒れ、1945年にクラブ名は元のインテルナツィオナーレに戻った。

1940年代後半-50年代 -サン・シーロとカテナチオ-

1948年、インテルはそれまでのホームスタジアム、スタディオ・チーヴィコ・アレナ(Stadio Civico Arena)の老朽化に伴い、ホームスタジアムをミランのホームスタジアムサン・シーロに移転し、共同でスタジアムを使うことになった。

1952-53シーズン、監督のアルフレド・フォーニはそれまで弱小チームが使っていた堅い守備からのカウンター(のちにカテナチオと呼ばれる)を基本とした戦術を使い、ストライカーの"Veleno(毒)"ことロレンツィとニエルス、左ウィングの"Nacka"ことスコグルンド、GKの"Kamikaze"ことゲッツィらの活躍もあり、6回目のスクデット獲得。 翌1953-54シーズンは前シーズンに守備的過ぎると批判されたことから、攻撃的になり、7回目のスクデットを獲得した。

そして1955年、後に伝説となる石油王アンジェロ・モラッティが会長に就任する。

1960年代 -魔術師とグランデ・インテル-

就任以来、監督の首を次々と挿げ替えていったモラッティ会長だったが、1960年についに素晴しい監督に巡り会った。 彼の名はエレニオ・エレーラ。スペインのFCバルセロナに2回の優勝をもたらした、"マーゴ(魔術師)"と呼ばれるアルゼンチン人監督である。

愛弟子ルイス・スアレスを引き連れ、スペイン風の攻撃的サッカーで臨んだエレーラだったが、当初は結果が出ず1962年に一度解任された。しかしスペイン代表を率いたチリワールドカップから戻ってくると、再びインテルの監督に就任し、今度は堅い守備からのカウンターアタックを基本戦術とし、当時としては珍しいメンタルトレーニングも行い、強化に着手した。

そして1962-63シーズン、インテルはGKジュリアーノ・サルティやアルマンド・ピッキを中心としたタルチシオ・ブルニッキ、アリスティーデ・グアルネーリ、ジャチント・ファッケッティの守備陣の奮闘、司令塔スアレスのゲームメイクやコルソ、サンドロ・マッツォーラのファンタジーあふれるプレー、当時としては革新的だったSBのファケッティのオーバーラップによるカウンター攻撃で8回目のスクデットを獲得した。

翌1963-64シーズンはボローニャに同勝点によるプレーオフに負けてスクデットは逃したものの、UEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)では当時無敵だったスペインのレアル・マドリードを倒し、イタリア勢ではミランに次ぐ2番目のヨーロッパチャンピオンに輝いた。翌シーズンにはアルゼンチンのインデペンディエンテを撃破してインターコンチネンタルカップを制し、イタリア勢では初の世界チャンピオンになり、ベンフィカを倒してUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)も連覇、さらにはスクデットも獲得した。 さらに翌1965-66シーズンにも再びインデペンディエンテを撃破して世界チャンピオンになり、国内では10回目のスクデットを獲得してユヴェントスに次ぐラ・ステッラ(スクデット10回獲得を表す星)をユニフォームにつけることを許されるようになった。翌シーズンもUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)決勝に進んだが、今度はスコットランドのセルティックに敗れた。

そして1968年、モラッティ会長はイヴァノエ・フライッツォーリに会長職を譲り、グランデ・インテルの時代は終わりを告げた。

1970年代-80年代前半 -夢の終わり-

1970-71シーズン、選手と対立していたエリベルト・エレーラ監督の後を受けたジャンニ・インヴェルニッツィ監督はグランデ・インテルの遺産と得点王に輝いたロベルト・ボニンセーニャの活躍で11回目のスクデットを獲得、翌シーズンはUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)決勝に進んだが、ヨハン・クライフ率いるオランダアヤックスに完敗、これが最後のUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)決勝となり、今日までインテルはUEFAチャンピオンズリーグ決勝に勝ち進んでない。

そしてマリオ・コルソやタルチシオ・ブルニッキがクラブを去り、サンドロ・マッツォーラも引退、ジャチント・ファッケッティも1977-78シーズンに2回目のコッパ・イタリアを手土産に引退しグランデ・インテルは完全に消滅した。

1979-80シーズンにエウジェニオ・ベルセッリーニ監督の下、イヴァノ・ボルドンガブリエレ・オリアーリジャンピエロ・マリーニジュゼッペ・バレージ、エヴァリスト・ベッカロッシ、アレッサンドロ・アルトベッリ等の活躍で12回目のスクデットを獲得、1981-82シーズンに3回目のコッパ・イタリアを獲得し、黄金時代の再来を期待させたが、それも長くは続かなかった。

また、1979年にジュゼッペ・メアッツァが他界、これに対しミラノ市は1980年3月2日に彼の功績を讃えてスタジアムの正式名称をスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(Stadio Giuseppe Meazza)と定めた。

80年代後半 -一瞬だけの栄光-

その後フライッツォーリ会長は1984年に"フィアットの従業員"と揶揄された会長のエルネスト・ペッレグリーニに会長職を譲る。 そして1986年、ペッレグリーニ会長はユーヴェに黄金時代を築いたジョヴァンニ・トラパットーニ監督を招聘し、インテルの復活を託す。

最初の2年間は結果が出ないトラパットーニ監督だったが、1988-89シーズン、勝負弱さをドイツ人ローター・マテウスの"ゲルマン魂"を注入することにより補填し、ファケッティ引退以降不在となっていた左SBを同じドイツ人のアンドレアス・ブレーメで埋め、生え抜きのワルター・ゼンガジュゼッペ・ベルゴミ、リッカールド・フェッリ、若手のニコラ・ベルティ、アルゼンチン人のラモン・ディアス、得点王に輝いたアルド・セレーナなどを擁し、スクデットを獲得した。 このときのスクデットは勝点が勝ち=2の制度の下では最高記録となる58(34試合26勝6分2敗。現在のシステムでは84)、アウェー最多勝点26(17試合11勝4分2敗。現在のシステムでは37)、アウェー最多勝利など数々の当時のリーグ記録を塗りかえるものだった。

翌シーズンドイツ人のユルゲン・クリンスマンを迎え、ドイツトリオを中心としたインテルはイタリア・スーパーカップを制し、今度こそ黄金時代の再来かと思わせたが、それも一瞬の栄光にすぎなかった。

90年代 -苦悩のネラッズーロ-

その後ドイツトリオとトラパットーニ監督はインテルに1990-91シーズンにローマを破りUEFAカップのタイトルをもたらした。しかし、トラパットーニ監督はシーズン終了後、ファンの「つまらないサッカー」という声の下に解任され、インテルの迷走が始まる。

1992-93シーズン、監督にエラス・ヴェローナに唯一のタイトルをもたらしたオズワルド・バニョーリを招聘し、"ゴールの詩人"ことルベン・ソサの活躍で2位になったインテルは、翌シーズン、ACミランがオランダ人を獲得して成功したのを見てデニス・ベルカンプヴィム・ヨンクを獲得しスクデットを狙ったが、期待されたベルカンプが全くもって活躍せず結果は13位という史上最低の成績、彼等も途中就任で選手時代にここでスクデットを獲得しているジャンピエロ・マリーニと共に2回目のUEFAカップのタイトルをもたらしただけだった。

1994-95シーズン、ナポリに最初のタイトルを持ってきたオッタビオ・ビアンキ招き立て直しを図ったものの、期待されたベルカンプパンチェフはシーズン通して活躍せずトップとは大きく離れた7位に終わった。

1995年2月18日、グランデ・インテルを築きあげたアンジェロ・モラッティの息子マッシモ・モラッティが、累積赤字で経営に行き詰まっていたペッレグリーニからインテルを買い戻し、インテルは再びモラッティ家のものとなった。

しかし、毎年のように多額の移籍金でスター選手を買い漁り、何度監督の首を挿げ替えても、1997-98シーズンに3回目のUEFAカップを獲得することしかできなかった。

2000年代 -久しぶりの歓喜~新たな黄金時代へ-

21世紀に入り、2001-02シーズンにバレンシアCFを2年連続UEFAチャンピオンズリーグ決勝に導いたアルゼンチン人監督のエクトル・ラウル・クーペルを招聘し、最終節まで首位に立っていたが最後の試合に敗れ、またしてもスクデットを逃してしまう。

そして2004-05シーズン、ヨーロッパのカップ戦優勝からは既に40年以上、最後のスクデットからは15年以上経っていたこの年、前SSラツィオ監督のロベルト・マンチーニを招聘する。しかし、負けないものの勝てない試合が続き、このシーズンも3位に終わる。翌2005-06シーズンも当初は3位でシーズンを終えたが、シーズン後に発覚したカルチョ・スキャンダルにより、1位ユヴェントスがスクデットの剥奪、2位ACミランも30ポイントの減点となり、最終的には3位だったインテルに17季ぶり14度目のセリエA優勝が転がり込んだ。この優勝は「机上のスクデット」として賛否両論であったが、2006年夏の移籍市場ではカルチョ・スキャンダルの影響により、ユヴェントスからズラタン・イブラヒモビッチパトリック・ヴィエラを、またチェルシーFCからエルナン・クレスポを獲得し、2006-07シーズンは共に近年のヨーロッパの主要リーグにおける最高記録となった「17連勝」、勝ち点100にあと僅かと迫る「勝ち点97」をあげ、前評判通りの圧倒的な強さで18シーズン振りとなるピッチ上でのスクデットを獲得する。

2007-08シーズン、カルチョ・スキャンダルの処分が消化され前季の様な圧倒的な差は埋まったこの年、終盤のASローマの猛追により優勝の行方は最終節までもつれ込んだものの、僅差で振り切りセリエA3連覇を達成した。しかしシーズン終了後、UEFAチャンピオンズリーグでの結果(この3年でベスト8が最高)、さらには08年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦のリヴァプールFC戦敗退後の辞任発言(後に撤回)などが取り沙汰され、マンチーニは解任された。

そして2008年6月、後任に元チェルシーFC監督のジョゼ・モウリーニョが就任。当時、3連覇をした監督を替える必要があるのかとイタリア国民の議論を呼んだが、チェルシーでの数年間で数多くの栄冠を掴んだモウリーニョを指揮官に置く事によってセリエAとは対照的に結果の残せてない「UEFAチャンピオンズリーグを制する」という悲願のビッグイヤーが期待が集まった。しかし、前年度の王者マンチェスター・ユナイテッドに敗れ3季連続のベスト16敗退となり、久々のビッグイヤー獲得には至らなかった。一方、セリエAでは最終節まで結果を待たずに4年連続の優勝を決めた。

2009年夏の移籍市場では主力であるズラタン・イブラヒモビッチマクスウェルFCバルセロナに放出したものの、イブラヒモビッチとのトレードでサミュエル・エトオを獲得する。またジェノアCFCからディエゴ・ミリートティアゴ・モッタを、バイエルン・ミュンヘンからルシオを、レアル・マドリードからヴェスレイ・スナイデルを獲得するなど積極的な補強を行い、フリオ・クルスエルナン・クレスポら余剰戦力の放出も行ってメンバーを大きく刷新した。

同年の冬の補強ではマンチェスター・シティパトリック・ヴィエラACミランアレッサンドロ・マンシーニをレンタルで放出し、SSラツィオからゴラン・パンデフパルマFCからマクドナルド・マリガを獲得した。

タイトル

国内タイトル

1909–10, 1919–20, 1929–30, 1937–38, 1939–40, 1952–53, 1953–54, 1962–63, 1964–65, 1965–66, 1970–71, 1979–80, 1988–89, 2005–06(繰り上げ), 2006–07, 2007-08, 2008-09
1938–39, 1977–78, 1981–82, 2004–05, 2005–06
1988–89, 2005–06, 2006–07, 2008–09

国際タイトル

1963–64, 1964–65
1964, 1965
1990–91, 1993–94, 1997–98

近年の成績

  • 2008-09 セリエA 1位
  • 2007-08 セリエA 1位
  • 2006-07 セリエA 1位
  • 2005-06 セリエA 1位(最終順位は3位だが、上位2クラブの不正による勝ち点剥奪により繰り上げ優勝)
  • 2004-05 セリエA 3位
  • 2003-04 セリエA 4位
  • 2002-03 セリエA 2位
  • 2001-02 セリエA 3位
  • 2000-01 セリエA 5位
  • 1999-00 セリエA 4位


現所属メンバー

フォーメーション

<4-3-1-2> 2009-10シーズン 基本スターティングメンバー

2010年2月1日現在
No. Pos. 選手名
1 GK フランチェスコ・トルド
2 DF イバン・コルドバ (副主将)
4 DF ハビエル・サネッティ主将
5 MF デヤン・スタンコビッチ(第4主将)
6 DF ルシオ
7 MF リカルド・クアレスマ
8 MF ティアゴ・モッタ
9 FW サミュエル・エトオ
10 MF ヴェスレイ・スナイデル
11 MF サリー・ムンタリ
12 GK ジュリオ・セーザル
13 DF マイコン
15 MF レネ・クルヒン
17 MF マクドナルド・マリガ
No. Pos. 選手名
19 MF エステバン・カンビアッソ (第3主将)
20 MF ジョエル・チュクマ・オビ
21 GK パオロ・オルランドーニ
22 FW ディエゴ・ミリート
23 DF マルコ・マテラッツィ
25 DF ワルテル・サムエル
26 DF クリスティアン・キヴ
27 FW ゴラン・パンデフ
39 DF ダヴィデ・サントン
45 FW マリオ・バロテッリ
49 FW マッティア・デストロ
51 GK ヴィド・ベレツ
89 FW マルコ・アルナウトヴィッチ

ローン移籍選手

No. Pos. 選手名
16 DF ニコラス・ブルディッソ (ローマ)
18 FW ダビド・スアソ (ジェノア)
24 DF ネルソン・リバス (リヴォルノ)
30 MF マンシーニ (ACミラン)
76 FW ケルロン (アヤックス)
MF ルイス・ヒメネス (パルマ, テルナーナと共同保有)
FW ビクトル・オビンナ (マラガ)
FW ジョナサン・ビアビアニー (パルマ)
No. Pos. 選手名
MF ルカ・シリガルディ (バーリ)
GK エンリコ・アルフォンソ (ピサ)
MF アッティラ・フィルコル (サッスオーロ)
GK ジャコモ・ビンディ (ボルドー)
DF ガブリエレ・プッチオ (ヴェローナ)
MF ロニー・ディウク・トマ (ヴァレンツァーナ)
MF ニコラ・レドミ (ヴァレンツァーナ)
FW ジャンルカ・リテリ (スラヴィア・プラハ)

2009-10シーズン移籍

詳細は「List of Italian football transfers summer 2009」を参照

歴代監督

氏名 国籍 期間
ジョバンニ・トラパットーニ イタリア 1986-1991
コッラード・オッリーコ イタリア 1991
ルイス・スアレス スペイン 1992
オズワルド・バニョーリ イタリア 1992-1994
ジャンピエロ・マリーニ イタリア 1994
オッタビオ・ビアンキ イタリア 1994-1995
ルイス・スアレス スペイン 1995
ロイ・ホジソン イングランド 1995-1997
ルシアーノ・カステリーニ イタリア 1997
ルイジ・シモーニ イタリア 1997-1998
ミルチェア・ルチェスク ルーマニア 1999
ルシアーノ・カステリーニ イタリア 1999
ロイ・ホジソン イングランド 1999
マルチェロ・リッピ イタリア 1999-2001
マルコ・タルデッリ イタリア 2001
エクトル・ラウル・クーペル アルゼンチン 2001-2003
アルベルト・ザッケローニ イタリア 2004
ロベルト・マンチーニ イタリア 2004-2008
ジョゼ・モウリーニョ ポルトガル 2008-

永久欠番

歴代所属選手

詳細は「Category:インテルの選手」を参照

GK

DF

MF

FW

関連項目

外部リンク

公式
ユニフォーム (2009-2010シーズン)



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